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19.彼方からの伝言 #1【5歳の記憶】

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注意:この作品はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

あらすじ・・・

悲惨なネグレクトの被害者だった藤間美瑠(とうまみる)は、5歳の時、母親に弟と置き去りにされて命を落としかける。だが、死の淵にいた二人を救い出したのは、その母親自身だった。そして、母親は「いつか自分を許して欲しい」と告げて、闇に消えていく。美瑠は、まるで幽鬼のように現われて消えた母親を、自分の死の間際に現われて子どもを救った死霊だと思って成長する。だが、成人した美瑠にもたらされたのは、母親が生存していて、さらに幸せな家庭を築いているという知らせだった。

この作品は・・・

この世で一番聞きたくない悲惨な報道、それは児童虐待による子供の死です。幼い子どもが何の抵抗もできずに、酷い環境に命を奪われるたびに居たたまれない思いがします。その思いが昂じてこのような作品になりました。途中までは、眼をそらしたくなる描写もあります。ですが、その子どもたちと、その母親に、こんな結末があったら良いと願って書きました。

5歳の記憶

私の記憶は、窓から差し込む強い西陽と、蒸れた匂いのアパートの一室から始まる。
乱雑に脱ぎ散らされた衣類と、食べ散らかした後の、ビニール包装やプラスチックの容器が、何週間もそのままで、嫌な匂いが部屋に充満していた。

袖口も胸元も真っ黒になった着た切りの服で、気の抜けたように壁に寄りかかっている子供が私だった。
母親には、もう1週間も放って置かれていた。
冷蔵庫の食べ物は、あらかた食べ尽くして、最後は、マヨネーズまで吸って飢えをしのいだが、気持ち悪くなって、それ以上もう口に入れることはできなかった。
そして、もうお腹が減りすぎて、動く気力もなくなっていた。

側にはグッタリして、反応を示さなくなった2つ歳下の弟が横たわっていた。
最初は、少し世話もしていたが、あまりに泣きわめくし、何も口に入れたがらないので、途方にくれて、そのまま放っておいた。
そうしたら、やがて、泣くのを止めた。
あとは、自分のことだけしか考えられなくなった。そして、なんとなく、もう弟は死んでしまったと思っていた。

もうすぐ夜が来る。
この部屋には、電気がつかない。
眩しい西日が消えたら、わずかに窓の外から差し込む街の光以外は、重い闇が部屋を満たす。
そうしたら、今度は私の番だと思っていた。
弟が死んで、今度は私が死ぬ。
その頃の私は、死ぬと言う言葉は理解していた。でも、死ぬとどうなるか全く分かっていなかった。
身体が動かなくなって、どこか遠くに連れていかれることだと思っていた。
そして、あまり怖いと言う感情もなかった。

ただ、なんとなく、心の奥底から湧き上がるやりきれなさを感じていた。
結局、私たちは、お母さんには、要らない子だったんだ。
なら、なんで産んだんだ。
こんな狭くて、暗い部屋に閉じ込めて、辛い思いをさせるために産んだのか。

私は、外の世界を知らなかった。
この狭い、嫌な匂いのする狭い部屋以外に、広い外の世界があることを知らない。
母親からは、決して外にはでるな、と言われていた。そして、母は外出する時、外から鍵をかけて、絶対に中から開けられないようにしていた。
異様な光景だったろう。普通のアパートのドアの外側に、中から開かないように取り付けられた金具。
しかし、それを見て誰も関心示さないほどに、このアパートの住人は、自分たちが生きることに精一杯だったんだと思う。
でも、まるでゲージに閉じ込められた獣だった。
母は、ふらりと帰ってきて、ゲージの扉を開けると、餌だけを投げ入れてゆく。
私たち姉弟がそれを貪り食べる。
そして、飼い主がきまぐれを起こして、餌が途絶えると獣たちは死ぬ。

やがて、西陽が消えかかって薄暗くなった部屋を、ぼんやりと眺めていた私の前に仄かな光が集まり始めた。
最初は、目の前の2、3の光の点だった。それが、だんだん数を増していった。
気がつけば、部屋中が淡い光たちに満たされている。こんな眩しいものは、いままで見たことがなかった。
やがて、光は目の前の一点に徐々に集中し始めた。
そして、淡い像を結んだ。
それは、大人の女の人だった。
今思えば、不思議な格好をしていた。
羽のついた帽子に、肩の張りでた洋服。目立つボタンと、ショールのようなものを羽織っている。そして、下に擦りそうな長いスカート。
「お母さん・・・?」
私は思わず、そう呼びかけた。
一つは、大人の女性は母しか知らなかったからだ。そして、いつも不機嫌そうに、背中ばかり向けていた母だったが、その女性の雰囲気が母そっくりだった。
ただ、目の前の母は、今まで決して見せたことのない笑顔だった。

光るお母さん

「そうよ、お母さんよ。美瑠ちゃん。」
目の前の女性は自分を母親と認めた。
「お母さん、ごめんね。真輝(まき)ちゃんが・・・真輝ちゃんが死んじゃったの。」
その私の訴えに母は一瞬ハッとした顔をした。
そして、真顔を崩さないで言葉を継いだ。
「いい、よく聞いて。真輝ちゃんはまだ死んでないの。まだ、間に合うわ。だから、ありったけの力を振り絞って、助けてえって叫ぶのよ。」
「う、うん・・・。」
「さあ、美瑠ちゃん、立ち上がって。」
母に促された私は、なんとか立ち上がろうとした。
しかし、ひもじさに目がくらみ、その場に崩れ落ちるように尻もちをついた。
「ほら、美瑠ちゃん、もう一度。しっかり。真輝ちゃんを助けられるのは、あなただけなのよ。」
母の声は柔らかく、優しかった。でも、その響きは力強く、私は拒むことができなかった。
母の声に押され、また私は立ち上がった。
よろつく足で。
「そうよ、偉いわ、美瑠ちゃん。さあ、そのまま窓のところまで行くの。」
母は、いつの間にか後ろに回り込み、倒れそうになる私を支えてくれていた。
しかし、不思議なことに、母の力は感じなかった。ただ、暖かいものに、そう綿のようなものに、そっとくるまれている感覚だった。
そうして、よろめきながら、一歩一歩流し台の上の、外に格子のはまった窓へと近づいていった。

流し台の上の窓に、5歳の私の背は届かなかった。わずかに、壁と流し台の間の空間から、やっと窓の隅に取り付くことができた。
しかし、窓には金具のロックがかかっていて、解除しようと手を伸ばしても届かなかった。
「さあ、美瑠ちゃん、窓を壊すの。フライパンを手に持って、思い切り窓にぶつけなさい。」
母に促されて、コンロの上の、もう何年も使われずに錆び付いているフライパンに手を伸ばした。このフライパンは、とても肉厚の鉄製で、衰弱しきった5歳の私では、少し持ち上げるだけで精一杯だった。
しかし、母はその私を更に励まし続けた。
「そう、偉いわ。しっかり持って。そう、フライパンを後ろに引いて、そのまま窓にぶつけて。」
光る母の手に導かれて、私はフライパンを後ろに引いて、勢いをつけて窓にぶつけた。
グワァァン!
窓に当たったフライパンは鈍い音を立て、手がしびれた私は思わず落としそうになった。
その私の手を、力を感じさせない光る手でくるみながら、母は声をかけ続けた。
「さ、もう一回、もう一回ね。」
私は母に言われるまま、同じ動作を繰り返して、フライパンを窓にぶつけた。
落とさないよう痛いほどフライパンを握りしめた私の小さな拳は、血の気が引いて白くなっていた。
グワァァン!グワァァン!
でも、母はそんな私に繰り返し、フライパンで硬い窓に挑ませるのだった。
やがて、窓に僅かな亀裂が認められたと思った時、そこに振り下ろしたフライパンが硬い窓の障壁を打ち砕いた。
グワッシャン!パリン!
窓の割れる鈍い音と、ガラスの落ちる鋭い音。
そして、割れた窓から吹き込んだ風が外の匂いを運んできた。

「さ、思いきり・・・思いっきり、外に向かって叫ぶの。助けてえって。」
母は私の肩に手を置いて、励ますように言った。
「あなたは強い子だわ。そして、今、真輝ちゃんを助けられるのは美瑠ちゃん、あなただけなの。」
「う、うん。」
こくりと頷いた私は、思いっきりお腹に力を込めて空気を吸い込んだ。
そして、息を吐き出しながら甲高い子供の声で叫んだ。
「助けてえ。弟が、弟が死んじゃう。早く、早く、ここから出してえ。」
気のせいか、母が少し薄くなったように見えた。
少し寂しげに、そしてとても優しく微笑んだ母は、「ひどいお母さんでゴメンね。もう時間がないの。もう一緒に居て上げられない。」と詫びた。
「お母さん・・・。」
これがさっきまで恨んでいた同じ母なのだろうか。そして、もう一緒にいられないってどういうことだろう。
急に心細くなって、私はしゃくり上げ始めた。
「ダメよ、泣いていては。もう一回思いっきり叫ぶの。」
母は強く声を張って促した。
ますます母の姿は薄くなる。気のせいじゃなかった。母は消えてしまうのだ。
「さあ。」
そんな私の惑いを見て、母はもう一回促した。

ああ、お母さん。
そんな感情を訳も分からぬまま、私は喉からほとばしらせた。
「助けてえ、誰か。誰か、助けてえ。」
その声に気付いたのか、急にアパートの階段のあたりが騒がしくなった。
そして、母は夕闇に溶けていくところだった。
その母に思わず手を伸ばした私に、彼女は最後の言葉をかけた。
「美瑠ちゃん、さようなら。悪いお母さんだったけど、あなたたちを死なせなくて本当に良かった。真輝ちゃんとずっと仲良くね。そして、できることなら、いつかお母さんを許してね。」
そう言い残して母は完全に消え、部屋は闇に満たされた。

(彼方からの伝言 #2に続く)