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12.志乃さん #01【ひふみのなやみ】


注意:この作品はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

定時前

夕方のオフィス、中年の男性が、読んでいた資料から眼を上げると奥の席に向かって声をかけた。
「志乃さん、お~い、志乃さん、ちょっといいかな。」
「はあい。」
志乃さんと呼びかけられた女性は、すぐに返事をして席を立った。

「はい、課長、何でしょうか?」
「うん、ちょっと、例のプレゼン資料どうかと思ってね。」
「それなら、何とか今週中には仕上がります。」
それを聞いた男性は満足そうに頷いた。
「そうか、助かるよ。それとね。」
「はい。」
「今度の営業会議の資料、もうまとまっているかな。」
「申し訳ありません。それはもう少しだけお時間をいただけないでしょうか。」
「いやいや、もう定時だし、いつごろできるかだけ教えてくれればいいよ。」
「明日の午前中には見ていただけると思います。」
「うん、わかった。それで頼むよ。」
「有難うございます。」

上司に軽く会釈をして、志乃さんこと、古澤志乃(ふるさわしの)は自席に戻り、帰り支度を始めた。
やがて、定時を知らせるチャイムが鳴ると、「皆さんお先に失礼します。」と皆に向かって会釈をして、オフィスの扉に向かった。
そして、社員たちも彼女に口々に返答を返した。
「志乃さん、お疲れ様。」
「お疲れ様でした。」

その志乃と入れ替わりに営業先から事務所に帰ってきたのは、若手社員の一二三数人(ひふみかずと)だった。
「ただいま、戻りました。」
そして、志乃の姿を認めると、彼女が通りやすいように扉を開いたまま脇によけた。
「有難うございます。」
「志乃さん、お疲れ様です。」
そして、年下の気安さか、志乃に対して軽口を言った。
「本当に志乃さんはいつも時間に正確ですね。電波時計のようです。」
「いえ。」
「それで、今度一度飲みに行きましょうよ。」
「有難うございます。でも、せっかくですが、遅くなりますと家族を待たせますので。」
「そうですか。」
「では、失礼します。」

「おい、一二三、お前、志乃さんに気があるのか。」
席についた数人を4つ先輩の村木がからかった。
「よしましょうよ。そりゃ、志乃さんは僕の2こ上だから十分圏内ですけど。でも、あの人に、もっと色気みたいなものがあれば・・・。」
「まあ、志乃さんは、なんと言うか、さっぱりしているからな。」
「はあ、さすが村木さん、年の甲と言うかうまいこといいますね。」
「バアカ、そんなことを言っているとバチがあたるぞ。いつも、どれだけ世話になっているんだ。」
「そうでした。」
「お前、知ってるか。志乃さんは、仕事の腕を見込まれて、前は社長室付きだったんだぞ。」
「えっ、前って、1年前まで志乃さん、社長室にいたんですか。」
「彼女は今年で26だろ。短大を卒業して、すぐこの課に配属されたから、もう6年だよな。うちじゃ、課長の次に長いわけよ。」
「それが、一旦社長室に移動になったんですか。」
「そう、今から2年前に社長室に付きになったんだ。そりゃ、俺たちからすれば痛かったけど、志乃さんなら当然だよなって話していたんだ。」
「それで、代わりに僕がきたんですよね。」
「いや、断じてお前じゃ、志乃さんの代わりは務まっていないから。でも1年経って、志乃さんが社長室から戻されたんだ。なんか、不始末でもやらかしたのかって、随分心配したよ。」
「ふうん。でも、僕思うんですけど。」
「なんだ。」
「志乃さん、なんか家庭に複雑な事情を抱えているんじゃないですか?」
「は?」
「だって、期末の打ち上げとかで飲みに誘っても、一度も来たことないし、いつも、家族が待っているからって、定時退社ですよね。」
「まあな。」
「で、実は、女手ひとつで子供を育てていたりして。」
村木は、ないないというように首を振った。
「志乃さんに、そんな色っぽい話があるもんか。」
「ですよね。ははは。志乃さんの場合、むしろ、病弱なおとっつあんをかいがいしくして看病している絵がしっくり来ますよね。」
「バカ、時代劇かよ。」

案件

「一二三、一二三君、ちょっと。」
「おい、課長がお呼びだぞ。」
「はい。」
それに答えて、一二三数人は席を立った。
「今参ります。何でしょうか。」

「例のあれ、今どうなんだ。うまく行っているか。」
上司の問いかけに数人が答えた。
「A病院の件ですよね。今日提案書を提出してきました。」
「いけそうか?」
部下の反応で先方の感触を探るように課長の笹嶋は尋ねる。
「実は、A病院は妹の勤務先でして。」
「ほお。」
「妹と同姓なので、事務長が僕のことを覚えていてくれたんですよ。」
「確かに、『一二三』はかなり珍しいからな。でも、病院に『タグ・トレーサー』はちょっと異色だよな。」
数人は少し誇らしげに上司に答えた。
「実は、妹のアイディアなんです。」
「そうか。」
「病院では、患者さんが急変することがあります。そんな時、担当医に連絡を取ろうとするんですが、徹夜続きで院内で仮眠を取っているドクターの中には応答しない人もいるらしいんです。すると、看護師総出で大騒ぎして探すんですが、もし、ドクターが何処にいるかいつも分かる仕組みがあれば助かると言われたんですよ。」
「なるほど、だが、費用対効果から言って、ドクターの追跡だけじゃ見合わないんじゃないか?」
「そこなんですけど・・・。」
よくぞ聞いてくれました、とばかりに数人は続けた。
「ちゃんと考えています。
実は、提案書には他にもいろいろと盛り込んであります。
まず、院内を徘徊する患者さんの追跡に応用します。さらに、タグを使えば、看護士さんの器具出しの手助けも可能です。誰でも器具出しができるようになれば、その分看護士さんの負担を減らして本来のケアに集中できるようになります。」
それに対して、意外そうに笹嶋が返した。
「へえ、それ皆んな君が思いついたのかい?」
「えへへ、志乃さんに提案書の清書を頼んだら逆提案されまして。」
「だと、思った。なら、少しは期待できそうだな。」
そこで、数人は少し、難しい顔をした。
「でも、やっぱりと言うか、競合がいまして。」
「何処だ?」
「N社です。」
「N社かあ、大手だな。勝てそうか?」
「先方はブランド力がありますからね。でも、うちも負けないように提案を練りこんでありますから。」
「確かに、N社は強敵だが、なんとか頼む。」
「はい。」

朗報

その翌日、課長の笹嶋は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「志乃さん・・・に、言ってもしかたないんだが。」
笹嶋は眼の前の志乃にボヤいた。
「この時期になって、まだこれだけしか数字が見えていないとは、皆んな危機感はあるのか?」
「申し訳ありません。」
「いや、志乃さんが謝ることじゃないよ。」
志乃は昨日の笹嶋との約束どおり、課の数字をまとめて提出したところだった。
しかし、そのあまりに不甲斐ない営業成績に笹嶋は頭を抱えていた。
「ああ・・・だから、電子機器営業二課はお荷物だと言われるんだ。」

「ところで、一二三君・・・。」
不穏な雰囲気に自分の席で目立たないように小さくなっていた一二三数人は、笹嶋から急に振られてビクッとした。
「君もうちの一員だぞ。だいたいなんだ、もう11時なのに机にへばりついて、一軒でも見込み先を回ってこんか。」
「す、すみません。」
ついつい、たまった経費や報告書を処理しているうちに、すっかり遅くなってしまったのだ。
それに、数人はA病院からの連絡を待っていた。
「す、すいません。今A病院からの連絡を待っているんです。」
「はあっ?そんなもの出先で携帯で受けたらいいじゃないか。」
「で、ですが、相手が相手ですから、出先で応答できなかったらマズイって言うか・・・。」
「何を言っとるんだね。ちょっと来なさい!」
苦しい言い訳をする数人と笹嶋の会話を聞きながら、志乃は行儀良く立っていた。

志乃はほとんど化粧をしない。
そして、長い黒髪を仕事の邪魔にならないように後ろできつく束ねていた。
すると、ますます彼女の細面が協調された。
さらに、トレードマークの野暮ったい黒ぶち眼鏡が、その細い顔と不釣合いで少々滑稽ですらあった。
服装は、黒系のスーツに膝丈のスカートを着こんで、その中にレディース用のビジネスシャツを着ていた。
そのために、ただでさえ細身の身体がより一層痩せて見えた。
そして、スーツとシャツを腕まくりして、フック式のアームバンドで止めているのが、彼女の仕事スタイルだった。

その時、突如、プルルルルと鳴り響いたオフィスの電話に数人が飛びついた。
「はい、松木電子 電子機器営業部です。はい、はいっ。私です、一二三です。あっ、そうですか。はい、いいえ、とんでもございません。はい、本日13時ですね。分かりました。有難うございます。では、13時に伺います。失礼いたします。」
そして、受話器を戻すと数人は深々と電話機に向かってお辞儀をした。
その大仰な仕草に思わず、笹嶋と志乃は顔を見合わせた。
「一二三君、今のひょっとして。」
「はい、A病院です。」
「先方はなんて?」
「はい、うちの製品で前向きに検討したいそうです。ついては、諸々相談したいことがあるそうで、今日昼一番で伺うことになりました。」
「ほう、ということは、いけそうか?」
「はい、かなり固いと思います。」
「そうか!やったじゃないか。まさか・・・期待はしていなかったが。」
思わず気をそがれた数人は情けない声を出した。
「えっ、期待していなかったんですか?」
「い、いや・・・。」
笹嶋は自分の失言を必死で取り繕った。
「い、いや、志乃さんが提案書を清書してくれたし、大丈夫だと思っていたよ。」
「えっ?志乃さんですか?」
すっかり笹嶋の分は悪くなってしまった。
「課長、それは一二三さんに気の毒です。」
思わず、志乃も口を挟んだ。

「いやあ、済まん。だがなあ、これはうちの課では数年ぶりの大型受注だぞ。」
「そうですよ。」
「ついつい、私も興奮したんだよ。」
そう言って、笹嶋は自分の席から立ち上がると、自分から数人に近づいていった。
そして、「そうか、そうか」と言って、笹嶋は数人の肩を何度もバンバン叩いた。
「い、痛い、課長。」
そういいながらも、数人は嬉しそうな笑みを浮かべていた。

数時間後

それから、数時間後。
出て行く時の上気した顔とは対照的に、疲れたきった顔で数人は帰ってきた。
「ただいま戻りました・・・。」
「なあ、お前、少し疲れてないか。」
「い、いいえ、大丈夫です。」
心配して声をかけた村木に、数人は無理に笑顔を作って答えた。

「一二三、一二三君、ちょっと。」
「おい、また課長がお呼びだぞ。」
「あっ、はい。」
そして、待ちきれないように笹嶋は数人に質問をした。
「で、どうだった。A病院は。」
「はい、ほぼうちに絞り込んでいると回答をもらいました。ただ・・・。」
「ただ・・・?」
「い、いいえ、なんでもありません。」
「そうか、なら安心したよ。ははは。これで明日の営業会議では、針のむしろに座らんで済むな。」
「はあ・・・。」
安堵の色を浮かべる笹嶋とは対象的に数人はため息混じりだった。
「なあ、君、少し疲れていないか?午前中はしゃぎ過ぎたんだろう。」
「いえ、大丈夫です。」
一旦はそう気丈に答えたものの、自席に戻っても一向に仕事が手につく様子がない。腕組みしては、空を仰いだり、ため息ばかりついている。
笹嶋はその数人を気遣わしげにチラチラと見ていたが、やがて意を決したように席を立った。

「ちょっと、志乃さん、いいかな。」
「はい」
笹嶋に呼ばれた志乃は、彼に続いてオフィスの外に出た。
オフィスの向かいは、パーティションで仕切られた商談席だった。また、社員同士の打ち合わせに使うことも認められていた。
笹嶋はカップベンダーでコーヒーを二つ買うと、隅のコーナーに志乃を誘った。
そして、席につくなりこう切り出した。
「なあ、志乃さん、どう思う?」
「一二三さんのことですか?」
「うん、A病院から帰ってきた途端あの調子だ。」
「気持ちが顔に出やすい人ですからね。」
「ひょっとして、商談がぬか喜びで、私の手前言い出せずに困っているとかじゃないよな。」
「まさか、一二三さんはそんなウソを言う人じゃありません。」
「だよな。」
笹嶋は難しい顔をして言葉を続けた。
「しかし、A病院で何かあったのは間違いないだろうな。」
「はい。」
「せっかくの良い話なんだけどな・・・それだけに後でややこしいことになったらまずいなあ。それに、このままじゃ、ちょっと上に報告できないし。」
「そうですね。」
そして、少し遠慮がちに笹嶋が言った。
「そこでなんだが・・・君が一二三からそれとなく聞き出して貰えないかな。」
「えっ、私ですか?」
いきなり振られて志乃は慌てた。
「そう、たのむよ。」
「そんな、課長が直接聞かれたら良いではないですか。」
「まあ、そうだが、またさっきみたいはぐらかされるかも知れんし、課の中では志乃さんが一番一二三と歳が近いだろ。」
「そんな、もう退社時間ですし、困ります。」
「いや、事務所の中より、どこか行きつけの店に誘ってやってくれ。一二三は、酒が入ると急に口が軽くなるから。」
「その役なら、いつも仲のいい村木さんの方が適任じゃないですか。」
「村木かあ、志乃さんはあまり付き合わないから知らんだろうが、あいつは酒が入るとなあ・・・。」
「その・・・人が変わるんですか?」
「そうそう、とても話を聞くどころじゃないだろ?」
志乃も半ば諦めたように答えた。
「はあ・・・分かりました。一度、家族に連絡を入れさせて下さい。」
「すまんね。」

やがて、携帯を使うためにしばらく席を離れていた志乃が戻ってきた。
「あの、良いそうです。」
「そうか、良かった。ならこれは、私からの気持ちだ。」
「そんな、良いんですか?」
笹嶋が差し出した一万円札を受け取った志乃は、しばらく考えていたが、やがて「あの、領収書はもらってきましょうか?」と尋ねた。
それに、苦笑いで応じながら笹嶋は答えた。
「はは、済まんね。」

階段

課長からあのように頼まれたものの、数人にどう切り出したものか、志乃は思案にくれていた。
(あからさまに声をかけたら周りに勘ぐられちゃうし、やっぱり事務所じゃ無理かあ・・・。)
それでも、志乃には、数人に声をかける唯一のタイミングに勝算があった。
そうして、自席からチラチラと数人の方を伺いながら定時を待った。。
チャイムが鳴ると、案の定、数人は、う~んと大きく伸びをして「済みません、今日はこれで失礼します。」と言って立ち上がった。
やはり、仕事にならないのに事務所にいても仕方ないと判断したようだ。志乃の狙い通りだった。
それを見て、彼女は(よしっ!)と心で呟いた。
志乃は、不自然にならないように「私も失礼します。」と席を立って、少し早足で数人を追いかけた。
そして、エレベーターの前の数人に追いつこうとしたが、あいにく彼はちょうど来たエレベーターに乗り込んで扉を閉めてしまった。
次のエレベーターはしばらく来そうにない。意を決して志乃は、階段室に向かった。

ビルの一階でエレベーターを降りた数人は、階段を駆け下りて来る靴音を聞いた。
やがて、階段室の扉が開いて、息を切らせた志乃が姿を現した。
「はあ、はあ、よ、良かった。・・・一二三さん。」
「志乃さん、どうしたんですか?どうして階段?ずっと上から降りてきたんですか?」
驚く数人に志乃は、ずっと心の中で繰り返しつぶやいていた言葉をかけた。
「あ、あの・・・今日お時間ありますか?」
「えっ?僕?」
「昨日、声をかけてくれたでしょ。それで、今日どうかと思って。」
(え、えーっ、いきなり!しかも積極的だし。)
「・・・ダメですか?」
「あっ、いいですよ。」
いきなりの申し出に少しドギマギしながらも、どのみち真っ直ぐ帰る気にはなれなかった数人は了承した。
「有難うございます。」
(なんか誤解されなきゃいいけど。)
少し心配をしながら、志乃は照れ笑いをした。

(志乃さん #2に続く)