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20.彼方からの伝言 #2【母と言う名の虚夢】

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注意:この作品はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

ただ一筋の光

あれは一体何だったんだろう。
5歳の頃、あまりものごとが分からないうちは、なんとなく受け入れられた。
でも時が経つに順い、あの出来事の異常さがだんだん分かってきた。
空中から突然出現した光る母親。そして、その母親に救われたなんて。

母が闇に消えた後、アパートの扉の前には何人かの大人たちが集まって来た。
そして、中に向かって呼びかけたり、大きな音を立てて扉を壊そうとしていた。
耳を覆いたくなる鈍い音が何度か響いた後、急に扉は外に向けて開け放たれ、大人たちが顔をのぞかせた。そして、気の抜けたように立ち尽くす私と、命の残り火が消えつつあった弟の姿を認めると、外に向かって大きな声で叫んだ。
「おーい、たいへんだ。子供だ。早く、救急車を呼んでくれ。」
数人の大人たちに囲まれた私たちは、彼らの手によって部屋の外に運び出された。
やがて、到着した救急車に乗せられて、強い薬の匂いのする病院へと連れて行かれた。
そこで、私は医者から治療を受けた。痛い注射を何本もされ、5歳の私は泣き叫んだそうだ。そして、泣き疲れた私は点滴を受けながら眠りについた。
その間、弟は集中治療室で手厚い治療を受けていた。そうして、私も弟も辛うじて一命を取り留めることができた。
そう、私たち姉弟は救われたのだった。

少し状態が落ち着いた頃、警察と名乗る女の人が訪ねてきた。そして、私や弟のこと、母のことをいろいろと聞いた。
母が私や弟をどうやって面倒みていたかとか、食事は何を食べていたかとか、病気になった時はどうしていたかとか。そして時折、大人同士で、「ギャクタイ」と言う言葉を交わしているのが切れ切れに聞こえてきた。
特に母親が、私たちを一週間も放ったらかしにして姿を隠したことについて繰り返し尋ねられた。今思えば、警察は母を児童虐待で立件しようとしていたのだと思う。
しかしその度、私が繰り返したのは、光る母親が私たちを助けてくれたこと。だがそんな時、付き添いの看護師は不憫そうに私を抱きしめた。
「可哀想に、あんなことまでされて。でもお母さんが恋しいのね。だから、お母さんの幻を見たんだわ。」
警察や看護師たちがそう言うのも無理なかった。
私たち姉弟が閉じ込められていた部屋は、内と外から施錠され、いわば完全な密室だったのだ。そこに誰かが入り込む余地などはない。また、そこに大人の誰かが存在した形跡もありはしなかった。
だから、母恋しさと衰弱で、5歳の私が幻覚を見たと大人たちは結論付けた。
確かに、ひどい母親だったかも知れない。人間として、自分の娘として、私を扱わなかったかも知れない。だが、だが・・・、あの光に包まれた母親は、私のただ一つの肉親のぬくもりだった。
誰に幻と決めつけられようと、私は繰り返し、繰り返し、あの光る母と、そして差し伸べられた救いの手の存在を訴え続けた。誰もが、私の言葉を妄想とからかい、まともに取り合わなくなってからもずっと。

私たちの母親を、警察はしばらく探していたようだったが、その行方はついに分からず終いだった。
そして、病院から出ると私たち姉弟は施設に世話になった。そこは、事情があって親と暮らせない子供たちが、集まって生活している場所だった。
ここには二通りの子供がいた。
親を恋しがって、いつか一緒に暮らしたいと願っている子供たち。
あるいは、私たち姉弟のように親に捨てられて、それを負い目にしている子供たち。
やがてもの心ついた弟は、よく私に「なぜ自分には親がいないのか」と尋ねた。最初は、「今は事情があって遠くで暮らしているけど、きっといつか迎えに来てくれる」と慰めていた。
しかし年を重ねるうち、私のそんな嘘も通じなくなり、親に虐待され捨てられた過去は弟の人生の暗さとなった。
また、幼いとき、栄養失調で死にかかった後遺症で、弟は左の足が不自由だった。普通に生活している時は支障なくても、歩いたり走ったりするたびに、どうしても足を引きずった。それを周りにからかわれるうち、その身体の傷は心の傷となり、ひどい仕打ちをした母親への恨みとなった。
しかし、私にはあの日助けに来てくれた光る母親の記憶があった。ひどい人だったけど、本当は優しくて子供思いのお母さん。
あの記憶が、私に「お母さん」と言う言葉に優しい響きを与えていた。そして、「いつかお母さんを許してね。」と言ったお母さんのこと、本当はもう許している、だからいつか会いたいと願っていた。

「それは、幽霊だよ」
私が12歳の時、施設のサトシと言う友達が言った。
私は、時折どうしても、あの日のことを友達に話したくなる。
でも、ほとんどの子供は私を嘘つきと言った。
「そんな訳あるか。お前の母ちゃんは宇宙人かよ。」
「そうだよ、お姉ちゃん。もうやめてよ。」
弟もあまり母親の話は聞きたがらなかった。
確かにあんなこと、異常だ。
普通に考えれば、おかしいと思う。
でも、あの記憶が私の一筋の光だった。
私にも、間違いなく愛してくれたお母さんがいた。
だから、馬鹿にされても、嘘つきと言われても話をせずにおれない。
だけれど、弟はそんな私を嫌がった。姉が馬鹿にされるのが嫌だったのかも知れないし、母のことを聞きたくなかったのかも知れない。
しかし、サトシだけは、私の言うことを否定しなかった。
「シリョウって知ってる。幽霊のことさ。
だってさあ、急に空中から現れて、空中に消えたんだろ。そりゃ、お腹が空いて目が回っていれば幻も見るかもな。だけど、ハッキリ触られた感じもあるんだろ。
きっと、お前の母ちゃん、死んでるんだよ。でも、置き去りにしたお前たちが心配で化けてきたのさ。」
「そんな・・・。」
サトシに悪気はなかったろう。
でも、母親が死んでいると決めつけられて、私は言葉を失った。
シリョウ、そう、あの日現れたのは母の死霊。
ひょっとして私たちは置き去られたのではなかったかも知れない。
子供二人残して出掛けた母親は、外で不幸な事故に遭って死んだのかも知れない。
そして、子供への思いが残って、死霊としてアパートの私たちを訪ねて救ってくれたとしたら。
もう、12歳の私にはなんとなくその方が腑に落ちた。認めたくはなかったけど、少しづつ私の中でそんな思いが強くなっていった。
やがて、私はもう母の思い出を人前で語ることはなくなった。

母と言う名の虚夢

施設には18の高校卒業までいた。
そのあとは、就職先を世話して貰い自立をした。
勤め先は、市民病院の事務局だった。
そして、23歳の今、職場でも古参の事務員になっている。
実は18の歳、施設からは、支援するから准看護師を目指さないか、と話を貰っていた。
しかし、2年後に私の後を追って社会に出る弟を支えたいと思い断念した。
その弟も、18の歳に就職し、昼間働きながら夜間の大学に通っている。そして、私たち姉弟は、同じアパートの部屋で生計を共にして、支えあって生きていた。
しかし、弟は非常に優秀で、医学部も夢ではなかった。かなり、学校の先生からも勧められたし、一時は私も奨学金制度を使ってでも、なんとか弟の夢を叶えてやろうと真剣に考えた。
だが弟は、そこまで姉の私に負担がかけられないと、そのまま就職し、夜間で大学卒業の資格を取ろうと頑張っている。

そんなある日のこと。
「藤間(とうま)さん。お客さんが訪ねていらっしゃっています。玄関までお越しください。」
内線で呼び出されて、病院の玄関まで出向いた。
玄関前には、スーツを隙なく着こなした30前の男性が立っていた。
「藤間美瑠さんですね。お仕事中に申し訳ありません。私、今日は、泉本百合(いずもとゆり)と言う方の代理として参りました。朝倉弁護士事務所の北里と申します。」
北里と名乗った若い弁護士は、私に名刺を手渡した。
「はい。よろしくお願いします。それで、今日はどのようなご用件でしょうか。」
「ここでは何ですから、少し落ち着いて話をできるところはありませんか。」
「では来客用の応接にどうぞ。」
そう言って私は、北里弁護士を玄関の側の応接室に通した。
応接に腰掛けると、彼はすぐに用件を切り出した。
「あの、先ほど、泉本百合さんの代理人と名乗りましたが、実は泉本さんの旧姓は藤間と言います。」
藤間・・・私と同じ姓。
「あの・・・。」
「はい、あなた方のお母様です。」
え・・・。
あまりに唐突だった。
母は、18年前、私と弟を置き去りにして行方が分からなくなった人間だ。
そして、私の中では、あの18年前死霊となって私の目の前に現れたことになっていた。
「そ、それで、まさか、は、母は生きているのですか?」
「はい、ご存命です。しかも、再婚され、3人のお子さんもいらっしゃいます。」
死んだはずの母が生きていた。
まさか。
ならば、あの時現れた光る母はなんだったんだ。あれは、母じゃなかったのか。
でも、自分で「お母さん」と認めたではないか。
「あの・・・。」
思わず絶句した。
あの母が生きていた。
しかも、別に家族をもうけ、弁護士を代理人に立てるほどの裕福な境遇で。
でも・・・。
ならば、何故18年間も放ったらかしにしたんだ!
「いつかお母さんを許してね。」と言った、あの言葉は全部嘘っぱちだったのか。
私は急に起こった身体の震えをどうしようもなかった。
私は、母に救われたと思っていた。
それが生きていく光だった。
なのに・・・。
非道い!
自分だけ幸せな人生を送って、私たちのことはどうでも良かったんだ。
悔しい!
いっそ、知らない方が良かった。
それは、怒りなのか、絶望なのか分からない。
ガチガチと歯の根が合わずに、おこりのように小刻みに身体を震わせていた。
そして、硬く握り締めた両拳からは血の気が引いて、真っ白になっていた。

「お察しします。」
嘘!あんたなんかに私の気持ちが分かるはずがない。
「ですが、お母様は、長い間あなた方が生きていることすら知らなかったのです。」
「ち、ちゃんと探したんですか?」
「いえ、二人の幼な子をアパートに置き去りにして、見殺しにしたと思い込んでいたのです。」
「思い込んでいたんじゃないわ!本当に殺されるところだったの。」
「まあ、どうかお聞きください。わずか、17、8で母親になって、親とも縁を切られて必死で生きなくてはならなかった女の子だったんです。確かに育て方も、躾の仕方も知らずに行き過ぎたことをしたでしょう。遊びたい盛りで、子供より自分を優先したい気持ちもあったでしょう。
しかし、お母様はあなたを抱えて、たった一人生きなくてはならなかったのですよ。」
そう諭されても、溢れ出した感情は手がつけられなかった。
「なら、なら・・なんで産んですか!狭くて暗いアパートに閉じ込めて、殺すためだったんですか!」
そして、溢れてきた涙で何も見えなくなった。

「今日は、失礼しました。落ち着かれたころまた連絡をいたします。」
これ以上話にならないと思ったのか、北里弁護士は早々に席を立って帰っていった。
その北里を見送ることもせず、私は応接のソファの上でまんじりともできなかった。
やがて、心配して見に来た事務長に促され、そのまま早退して病院を出た。
しかし、私はアパートには帰らなかった。
とにかく、薄暗くて独りきりになれるところへ行きたかった。
そこで、見知ったオールナイトの小さな映画館の一席に腰を下ろした。
映画は、商業施設では公開されないような名もないフランスの新人監督の作品だった。
評論家からの評価は高くても、興業的にはほとんど成り立たない、そんな作品ばかりを週替わりで愛好家たちに届ける。そういう主旨の映画館なのだ。
目の前のスクリーンには、少女が幼少期から大人になって恋をして、その間に様々な悲喜劇を経験しながら、やがて彼女も母となる、そんなストーリーが流れていた。
しかし、その映画の詳細は覚えていない。
動き回る人影と光の明滅、そして飛び交うフランス語に、少し郷愁を感じさせる音楽。
字幕は表示されていたが、それも私にとっては映像の一部でしかなかった。
頭の中では、今日北里と言う弁護士からもたらされた情報を反芻していた。
私たちを置き去りにしたひどい母が生きていた。しかも、自分だけ幸せな家庭を築いて。私たち姉弟は2度も見捨てられたんだ。
そして、18年前の不思議な記憶。私たちを助けてくれた光る母は何だったのか。やはり、私の生み出した幻覚なのか。
そして、このことを弟にどう伝えたら良いか、それで気持ちがつぶれそうだった。

それから、何回も観客席の入れ替えがあった。
しかし、私はジッと席に腰を下ろして、一晩を明かした。
やがて、 朝の5時に近くなった頃、やっと私は席を立って家路を辿った。
ふと取り出した私の携帯には、もう何件も弟から不在着信が入っていた。
ゴメンね、無断外泊なんて、心配をかけてしまったね。
空には朝日がきれいなグラデーションを描きつつあった。遠くで早朝の電車の走る音がする。そして、鳥たちのさえずりが騒がしくなる時間だった。
私たちのアパート近くの公園まで来た時、弟の真輝が向こうから来るのが見えた。
「あ、ゴメンね。心配した。」
「別にい。お姉ちゃんもそう言う歳になったのかと思った。」
「え、違うわよ。ちょっと、ゆっくり独りきりで考えごとをしたかったの。」
「だったら、電話一本くらいしてよ。」
「ゴメンえん。」
心配しなかったと口で言っていても、おそらくあまり寝ていないのだろう。そして、どうしても気になって、明け方に起き出して病院まで様子を見にくるつもりだったのだろう。
「ちょっと、いいかな。」
私は弟を公園のベンチに誘った。
「う、うん。」
2人は並んで公園のベンチに腰掛けた。
朝陽が公園の木々を眩しく染めて、早朝にジョギングや散歩をする人たちが、朝の光の中に姿を見せ始めていた。
「お姉ちゃん、これ。」
そう言って、弟はコンビニの袋を手渡した。
中身は、サンドイッチと暖かい缶コーヒーだった。
私は、昨日のあの時から何も口にしていないことを思い出した。サンドイッチを一口かじり、コーヒーを口に含む。口いっぱいに広がる芳ばしい香りに、細胞が生き返るような感覚にとらわれた。
そして、弟の心遣いが嬉しかった。

「あのね。」
コーヒー缶に目を落として、私は切り出した。
「私たち、2人ぼっちじゃない。お互いお父さんも誰か分からない。だから、親戚もいないし、おじいちゃん、おばあちゃんだって知らない。唯一肉親と言えば、あの日私たちを放り出した母親だけよね。」
「どうしたの、急にそんな分かりきったこと。」
「その母親がね、・・・生きていたの。」
私に衝撃を与えた、この言葉が弟にどんな感情を起こすのか、私は言葉を切って身構えていた。
しかし、弟は真っ直ぐ前を見て、そして遠い目のまま言った。
「正直言うよ。俺、よく分からないんだ。」
その冷静さが、私には不思議でもあり、また安堵もさせてくれた。
「あのさ、あの女が消えた時、俺まだ3歳じゃん。正直、良い思い出も、悪い思い出もないしさ。なんか遠い話しって感じだよ。」
「そう・・・。」
「確かにさ、俺の左足をこんなにした恨みはあるよ。恨んで、恨んで、おかげで僕の青春暗かった、なんてね。でも、いい加減恨み疲れたかな。悪いけど、お姉ちゃんのように、空中から現れて助けてくれたって言う良い思い出もないから、今更裏切られようが無いんだ。」
母親の所為で青春の暗さを負った弟が、いつの間にか自分の力で気持ちを浄化している。
男の子は強いなあ、と我が弟ながら頼もしく思えた。
そして、私も少し母親と向き合える気がしていた。

(彼方からの伝言 #3に続く)

19.彼方からの伝言 #1【5歳の記憶】

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注意:この作品はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

あらすじ・・・

悲惨なネグレクトの被害者だった藤間美瑠(とうまみる)は、5歳の時、母親に弟と置き去りにされて命を落としかける。だが、死の淵にいた二人を救い出したのは、その母親自身だった。そして、母親は「いつか自分を許して欲しい」と告げて、闇に消えていく。美瑠は、まるで幽鬼のように現われて消えた母親を、自分の死の間際に現われて子どもを救った死霊だと思って成長する。だが、成人した美瑠にもたらされたのは、母親が生存していて、さらに幸せな家庭を築いているという知らせだった。

この作品は・・・

この世で一番聞きたくない悲惨な報道、それは児童虐待による子供の死です。幼い子どもが何の抵抗もできずに、酷い環境に命を奪われるたびに居たたまれない思いがします。その思いが昂じてこのような作品になりました。途中までは、眼をそらしたくなる描写もあります。ですが、その子どもたちと、その母親に、こんな結末があったら良いと願って書きました。

5歳の記憶

私の記憶は、窓から差し込む強い西陽と、蒸れた匂いのアパートの一室から始まる。
乱雑に脱ぎ散らされた衣類と、食べ散らかした後の、ビニール包装やプラスチックの容器が、何週間もそのままで、嫌な匂いが部屋に充満していた。

袖口も胸元も真っ黒になった着た切りの服で、気の抜けたように壁に寄りかかっている子供が私だった。
母親には、もう1週間も放って置かれていた。
冷蔵庫の食べ物は、あらかた食べ尽くして、最後は、マヨネーズまで吸って飢えをしのいだが、気持ち悪くなって、それ以上もう口に入れることはできなかった。
そして、もうお腹が減りすぎて、動く気力もなくなっていた。

側にはグッタリして、反応を示さなくなった2つ歳下の弟が横たわっていた。
最初は、少し世話もしていたが、あまりに泣きわめくし、何も口に入れたがらないので、途方にくれて、そのまま放っておいた。
そうしたら、やがて、泣くのを止めた。
あとは、自分のことだけしか考えられなくなった。そして、なんとなく、もう弟は死んでしまったと思っていた。

もうすぐ夜が来る。
この部屋には、電気がつかない。
眩しい西日が消えたら、わずかに窓の外から差し込む街の光以外は、重い闇が部屋を満たす。
そうしたら、今度は私の番だと思っていた。
弟が死んで、今度は私が死ぬ。
その頃の私は、死ぬと言う言葉は理解していた。でも、死ぬとどうなるか全く分かっていなかった。
身体が動かなくなって、どこか遠くに連れていかれることだと思っていた。
そして、あまり怖いと言う感情もなかった。

ただ、なんとなく、心の奥底から湧き上がるやりきれなさを感じていた。
結局、私たちは、お母さんには、要らない子だったんだ。
なら、なんで産んだんだ。
こんな狭くて、暗い部屋に閉じ込めて、辛い思いをさせるために産んだのか。

私は、外の世界を知らなかった。
この狭い、嫌な匂いのする狭い部屋以外に、広い外の世界があることを知らない。
母親からは、決して外にはでるな、と言われていた。そして、母は外出する時、外から鍵をかけて、絶対に中から開けられないようにしていた。
異様な光景だったろう。普通のアパートのドアの外側に、中から開かないように取り付けられた金具。
しかし、それを見て誰も関心示さないほどに、このアパートの住人は、自分たちが生きることに精一杯だったんだと思う。
でも、まるでゲージに閉じ込められた獣だった。
母は、ふらりと帰ってきて、ゲージの扉を開けると、餌だけを投げ入れてゆく。
私たち姉弟がそれを貪り食べる。
そして、飼い主がきまぐれを起こして、餌が途絶えると獣たちは死ぬ。

やがて、西陽が消えかかって薄暗くなった部屋を、ぼんやりと眺めていた私の前に仄かな光が集まり始めた。
最初は、目の前の2、3の光の点だった。それが、だんだん数を増していった。
気がつけば、部屋中が淡い光たちに満たされている。こんな眩しいものは、いままで見たことがなかった。
やがて、光は目の前の一点に徐々に集中し始めた。
そして、淡い像を結んだ。
それは、大人の女の人だった。
今思えば、不思議な格好をしていた。
羽のついた帽子に、肩の張りでた洋服。目立つボタンと、ショールのようなものを羽織っている。そして、下に擦りそうな長いスカート。
「お母さん・・・?」
私は思わず、そう呼びかけた。
一つは、大人の女性は母しか知らなかったからだ。そして、いつも不機嫌そうに、背中ばかり向けていた母だったが、その女性の雰囲気が母そっくりだった。
ただ、目の前の母は、今まで決して見せたことのない笑顔だった。

光るお母さん

「そうよ、お母さんよ。美瑠ちゃん。」
目の前の女性は自分を母親と認めた。
「お母さん、ごめんね。真輝(まき)ちゃんが・・・真輝ちゃんが死んじゃったの。」
その私の訴えに母は一瞬ハッとした顔をした。
そして、真顔を崩さないで言葉を継いだ。
「いい、よく聞いて。真輝ちゃんはまだ死んでないの。まだ、間に合うわ。だから、ありったけの力を振り絞って、助けてえって叫ぶのよ。」
「う、うん・・・。」
「さあ、美瑠ちゃん、立ち上がって。」
母に促された私は、なんとか立ち上がろうとした。
しかし、ひもじさに目がくらみ、その場に崩れ落ちるように尻もちをついた。
「ほら、美瑠ちゃん、もう一度。しっかり。真輝ちゃんを助けられるのは、あなただけなのよ。」
母の声は柔らかく、優しかった。でも、その響きは力強く、私は拒むことができなかった。
母の声に押され、また私は立ち上がった。
よろつく足で。
「そうよ、偉いわ、美瑠ちゃん。さあ、そのまま窓のところまで行くの。」
母は、いつの間にか後ろに回り込み、倒れそうになる私を支えてくれていた。
しかし、不思議なことに、母の力は感じなかった。ただ、暖かいものに、そう綿のようなものに、そっとくるまれている感覚だった。
そうして、よろめきながら、一歩一歩流し台の上の、外に格子のはまった窓へと近づいていった。

流し台の上の窓に、5歳の私の背は届かなかった。わずかに、壁と流し台の間の空間から、やっと窓の隅に取り付くことができた。
しかし、窓には金具のロックがかかっていて、解除しようと手を伸ばしても届かなかった。
「さあ、美瑠ちゃん、窓を壊すの。フライパンを手に持って、思い切り窓にぶつけなさい。」
母に促されて、コンロの上の、もう何年も使われずに錆び付いているフライパンに手を伸ばした。このフライパンは、とても肉厚の鉄製で、衰弱しきった5歳の私では、少し持ち上げるだけで精一杯だった。
しかし、母はその私を更に励まし続けた。
「そう、偉いわ。しっかり持って。そう、フライパンを後ろに引いて、そのまま窓にぶつけて。」
光る母の手に導かれて、私はフライパンを後ろに引いて、勢いをつけて窓にぶつけた。
グワァァン!
窓に当たったフライパンは鈍い音を立て、手がしびれた私は思わず落としそうになった。
その私の手を、力を感じさせない光る手でくるみながら、母は声をかけ続けた。
「さ、もう一回、もう一回ね。」
私は母に言われるまま、同じ動作を繰り返して、フライパンを窓にぶつけた。
落とさないよう痛いほどフライパンを握りしめた私の小さな拳は、血の気が引いて白くなっていた。
グワァァン!グワァァン!
でも、母はそんな私に繰り返し、フライパンで硬い窓に挑ませるのだった。
やがて、窓に僅かな亀裂が認められたと思った時、そこに振り下ろしたフライパンが硬い窓の障壁を打ち砕いた。
グワッシャン!パリン!
窓の割れる鈍い音と、ガラスの落ちる鋭い音。
そして、割れた窓から吹き込んだ風が外の匂いを運んできた。

「さ、思いきり・・・思いっきり、外に向かって叫ぶの。助けてえって。」
母は私の肩に手を置いて、励ますように言った。
「あなたは強い子だわ。そして、今、真輝ちゃんを助けられるのは美瑠ちゃん、あなただけなの。」
「う、うん。」
こくりと頷いた私は、思いっきりお腹に力を込めて空気を吸い込んだ。
そして、息を吐き出しながら甲高い子供の声で叫んだ。
「助けてえ。弟が、弟が死んじゃう。早く、早く、ここから出してえ。」
気のせいか、母が少し薄くなったように見えた。
少し寂しげに、そしてとても優しく微笑んだ母は、「ひどいお母さんでゴメンね。もう時間がないの。もう一緒に居て上げられない。」と詫びた。
「お母さん・・・。」
これがさっきまで恨んでいた同じ母なのだろうか。そして、もう一緒にいられないってどういうことだろう。
急に心細くなって、私はしゃくり上げ始めた。
「ダメよ、泣いていては。もう一回思いっきり叫ぶの。」
母は強く声を張って促した。
ますます母の姿は薄くなる。気のせいじゃなかった。母は消えてしまうのだ。
「さあ。」
そんな私の惑いを見て、母はもう一回促した。

ああ、お母さん。
そんな感情を訳も分からぬまま、私は喉からほとばしらせた。
「助けてえ、誰か。誰か、助けてえ。」
その声に気付いたのか、急にアパートの階段のあたりが騒がしくなった。
そして、母は夕闇に溶けていくところだった。
その母に思わず手を伸ばした私に、彼女は最後の言葉をかけた。
「美瑠ちゃん、さようなら。悪いお母さんだったけど、あなたたちを死なせなくて本当に良かった。真輝ちゃんとずっと仲良くね。そして、できることなら、いつかお母さんを許してね。」
そう言い残して母は完全に消え、部屋は闇に満たされた。

(彼方からの伝言 #2に続く)

18.早くち


注意:この作品はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

津波の記憶

優(まさる)は中学1年生。
祖母と東京で暮らしている。

それは、4年前、まさるはまだ小学3年生だった。
午前の授業が終わった時、ぐらぐらぐらと校舎が大きく揺れて、生徒たちは机につかまったまま、右へ左へと激しく揺さぶられた。
窓ガラスは割れ、花瓶は倒れ、蛍光灯は天井から外れて落ちた。

「みんな、大丈夫か」
教師は子どもたちに声をかけ、安否を確かめた。
突然の揺れに、子ども達は度肝を抜かれて、青ざめ、泣き出したり、足がすくんで動けないものがいたが、幸いにして誰にも怪我はなさそうだった。

「まだ、次が来るかも知れん。机の下に入ってジッとしているんだ。」

やがて、第2波の揺れが襲ってきた。
「うああああああ」
子ども達が一斉に叫び声を上げた。

「みんな、落ち着け、そのまま、そのままジッとしていろ」
教師は子どもたちに声をかけ続けた。
今度の揺れは、前よりもっと長く、激しく大地と校舎を揺さぶって、やがて終息した。

息を殺して教師と生徒たちは次の揺れに備えていたが、小さな余震は続いていたものの、それ以上大きな揺れは来そうになかった。
そこで、教師は「みんな、大丈夫か。よし、安全なところに非難するぞ。」と子ども達を立ち上がらせて回った。

「先生、どこへ逃げるの?」
「裏山の高台だ。」
「えっ、家に帰っちゃいけないの?」
「そうだ、大きな地震の後には津波が来るかも知れん。さあ、急ごう。」

教師の引率に従って、子ども達はお互いを助けて、割れたガラスが飛び散った階段を下りて校庭にでた。そして、校門をくぐって裏山への道を辿った。

子ども達が、裏山に作られた避難所の高台に到着すると、すでに他のクラスの生徒や、町の人たちが集まっていた。
やがて、遥か下に広がっている海が急に真っ黒な塊になって盛り上がるのを彼らは目にした。

「ああああああああ」
大人も、子どもも、自分たちが暮らしている町に、そして彼らの生活に覆いかぶさる海に絶叫の声を発した。
海から湧き上がった黒い溶岩のような塊は、家や車や、船や、バスや、ビルや、お店や、樹木を体内に取り込んで不恰好に膨れ上がり、子ども達がさっきまで学んでいた学び舎すらも飲み込んでしまった。
そして、水は高台のわずか10m下まで押し寄せて止まった。
からくも彼らは命を永らえたのだ。

しかし、優の気がかりは漁協で働いている父親と母親のことだった。
(ちゃんと、にげられたのかな・・・)
道路も、水道も、電話も、全てのインフラが壊滅し、被災地は機能不全に陥った。
しかし、必死の支援と救助活動が行われ、バラバラに非難した家族が次々と再会していった。
ただ、悲報もひっきりなしにもたらされた。
父親が、母親が、兄が、弟が、子どもが、家族が・・・。

優も、心を震わせて、父と母の消息を待った。
しかし、ついに、二人の消息は彼にもたらされることはなかった。
優の両親は、行方不明者に数えられたまま、合同葬で葬られて死者のリストに加えられた。

その後、優は東京の祖母の元に引き取られ、彼は今年中学生になった。

祖母との日々

祖母の藤村多喜枝は旧家の流れを汲むしつけの厳しい家庭に育ち、やがて東京に嫁いで、そこで優の母を産んだ。

多喜枝は我が娘の忘れ形見を引き取ると、惜しみない愛情を注いでくれた。
ただ、優しいばかりでなく、生まれ育った環境で身につけた行儀作法を優にもしっかり躾けた。
朝、起きたら布団をたたみ、脱いだパジャマもきちんとたたむ。
ご飯はいつも「いただきます」で始まり「ごちそうさま」で終わる。
箸の使い方や、茶碗も持ち方まで、穏やかな声で、しかし短くピシリピシリと正された。
家を出る時は「行って来ます」、帰れば「ただいま」、帰れば何をおいても制服をハンガーにかけて着替えるように言われた。
就寝と起床時間は決められていて、それは休みの間も変わらなかった。

最初は、あまりの厳しさに面食らっていた優だったが、4年経つうちにすっかりその生活態度が身についていた。
それでも、今でも慣れないのが、朝晩のお勤めだった。
代々浄土真宗の門徒であった多喜枝は、子どもの頃から朝晩の「帰命無量」で始まる正信偈の勤行を欠かしたことがなかった。
そして、優も朝晩、お仏壇の前に座らされた。
二人してお仏壇の前に正座し、正信偈と念珠を手に、まず仏様に合掌。
「ふかきみ法」の歌で始まり、正信偈、和讃、「あなかしこ」で終わる、その間20~長いときは30分。
小学生の優も姿勢を正し、きちんと正座するように言われた。
最初は足が痛くて、痛くて、ずっともぞもぞしていた優も、1年過ぎる頃はかなり様になってきた。
しかし、4年経った今も20分間お仏壇の前に座っているのは辛かった。

祖母の入院

その祖母の多喜枝が入院をすることになった。
持病が悪化したためで、大ごとにはならなかったものの、大事をとって2ヶ月間の入院をすることになった。
多喜枝の心配は、その間の優の生活のことだった。
食事や身の回りのことは、近くに住む妹の絹子に頼んである。自治会も様子を見てくれるとは言ってくれているが、やはり絹子のところにやっかいになるべきではないか。
夜はずっと一人で過ごすことになる。なにしろ、まだ中学1年なのだ。

しかし、優は以外にあっさりと「おれ、大丈夫だから。」と言った。
「それに、誰かが仏様のお世話をしなけりゃいけないでしょ。」とも言う。
学校の担任とも話をした上で、朝起きた時と、夜寝る時は必ず多喜枝に電話するという約束で、やっと2ヶ月間の一人暮らしを認めた。

まさるにして見れば、厳しい祖母から離れて、少し骨休めができるはすだった。
しかし、2日に一回病院に面会に行った時に、何かをおろそかにしているとたちまち祖母に見抜かれるのだった。この間は、朝のお勤めをさぼって、夕方に面会に行ったところ、線香のわずかな残り香がしないことでばれて油を絞られた。
また、手を抜いたことで、せっかく身につけた習慣が元に戻って、2ヵ月後に一から苦労するのも嫌だった。
結果、優は割りと生真面目に一人暮らしを続けていた。

ただ、お勤めの時間だけは日を追って短くなっていった。
最初は20分、10日過ぎるころには10分、また10日過ぎれば5分と。
内容を変えるとばれると思い、一切省略こそしなかったが、その正信偈を読む速さがどんどん増していった。
「ふかきみ法」「チンチン」「帰命無量」から「あなかしこ」まで、実に落ち着かない早くちのお勤めだった。
しかし、さすがにこればかりは多喜枝も気づかないと見えて、見舞いに行くたびに優のことを「よくやってるね」と褒めてくれた。

病院からの電話

そして、多喜枝の入院から1か月が経った頃。

その日優は、部活動で遅くなり、多喜枝の妹の絹子の家で夕食を食べて帰宅したら8時ごろになった。
優は、とても疲れていた。
いつもなら、制服を着替え、夜のお勤めをして、お風呂につかった後に、祖母に連絡をしてから就寝する。しかし、お腹が満腹になったせいで帰宅後強烈な眠気が襲ってきた。
そこで、少し休むつもりで畳の上に身を横たえた。
やがて、心地良い眠りが訪れた。そして、11時を過ぎた時、携帯の呼び出し音が眠りを破った。

「もしもし、藤村多喜枝さんのご家族の方ですか。わたしは、看護師の木村と申します。実は、多喜枝さんの容態があまりよろしくなくて、一旦集中治療室に移っていただきました。いえ、そんなにご心配にならなくても大丈夫です。あくまでも、担当医が治療しやすいようにとのことですから。ただ、ないこととは思いますが、もしものことを考えてご連絡をしました。」

優は、最初は落ち着いて「はい、はい」と応じていたが、ついには堪えきれず「今から行ってもいいですか」と急き込んで尋ねた。
「はい、病院としては問題ありません。でも、すぐにどうこうというわけではありませんし、夜も遅いので明日にされてはいかがでしょう。」
「いいえ、行きます。走っていきます。」
そう言いながら、優はすぐに家を飛び出して病院へ駆けていた。

病院への道

病院へは、家から4kmほど、バスで停留場2つ分である。でも、11時を過ぎているのでもう病院までバスは走っていない。
息を切らせながら家の前の坂を駆け下りて、海沿いの道をずっと走っていく。海の横を走りながら、暗い夜の海が盛り上がってくる錯覚に襲われた。

今から4年前、その黒い海が両親を飲み込んだのだ。優は走りながら、突然こみ上げてきた悔しさに胸が詰まった。そして、涙が溢れてきた。それでも泣きながら走り続けた。
そして、その海が祖母までも飲み込むような気がしてならなかった。
祖母まで飲まれてしまえば、優はこの世でたった一人ぼっちになってしまう。それが、怖くて、ガタガタ震えながら優は駆けた。駆け続けた。

最後、病院へ続く上り坂を必死で登りきると、病院の夜間入り口でしばらく「ハア、ハア、ハア」と荒い息をした。
その優に看護師が声をかけてきた。
「あの、面会ですか。」
「305号室の藤村です。祖母は、いま何処にいますか。」
「お待ちください。今確認します。」
看護師は近くのインターフォンで、病棟のナースステーションに連絡をした。
電話を置くと彼女は優に向かって
「藤村さんはもう落ち着かれて、病室も戻られていますよ。」と教えてくれた。

早くち

安堵に胸を撫で下ろして、優は祖母の病棟へと向かった。
病室は就寝時間を過ぎていたが、多喜枝はベッドの脇の室内灯をつけて待っていた。
そして、優を見ると、
「心配をかけてごめんね。看護師さんがね、優が来るって教えてくれたから、許してもらって待っていたのよ」と声をかけた。
「おばあちゃん、なんともないんだね。」
「看護師さんもおおげさねえ。本当に大丈夫よ。」
「よかったあ。」
「ところで優、あなた夕方のお勤めをしていないでしょ。」
「えっ、ごめん。あまり疲れてて、家に帰ってすぐ寝ちゃったんだ。」
「まあ、仕方ない子ね。いいわ、そうしたら、今からここでお勤めしましょ。」
「えっ、ここで。看護師さんに怒られない?」
「大丈夫よ、大きな声を出さなければね。でも、今日はあなたが導師よ。」
「そんな、いきなり無理だよ。」
「いつも、ひとりでできてるでしょ、大丈夫よ。」

そこで、優は祖母の横に腰掛けて、一緒に正信偈を開いた。
小声で、「ふかきみ法」と歌い、「帰命無量寿如来」と優の導師でお勤めが始まった。
慣れない導師で何度もつまづきながら、最後「あなかしこ」で終わるまで、それでも多喜枝は何も言わずにつきあってくれた。
そして、お勤めが終わった時、「ご苦労様」とねぎらってくれた。

でも、「ところで、優。あなたのお勤め随分早口だったけど、ちゃんとひとりでもできている?」と問いかけられた。
優は、あまりの祖母の鋭さに思わず目を見張って、返答を返せなかった。
「やっぱり。いいこと、見えるところだけ繕っても駄目なのよ。」
「ごめん。」
「あなたにとって、わたしより大切な人ができるまでは、ずっと元気でいなきゃね。それに、目を離すとお勤めもすぐ手を抜くし。」
「もう、だからごめんって言ってるじゃん。」
「今日はもう遅いから泊まっていきなさい。」
「うん。」

その夜、優は祖母のベッドに特別に潜り込ませてもらった。
(まったく、おばあちゃんには叶わないな・・・)
隣に祖母の温もりを感じながら彼は眠りに着いたのだった。

(おわり)

17.8代前と10代前

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注意:この作品はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

霊能者

「行者様、この人はうちのお友達の村上沙夜(さや)さん。
 ご自分で商売してはるんやよ。」
「村上です。」
初老の二人の夫人が訪ねたのは、街から少し離れた場所に有る古びた民家だった。

行者と紹介された中年の男性は、肩から結袈裟をまとった白装束姿で、手には長い念誦をかけた山伏のようないで立ちであった。
何宗とも判然としない、仏壇だろうか、祭壇だろうか・・に背を向けて胡坐をかいている。
長年いぶされ、煤けた屋内に、もうもうと強い匂いの線香を炊いて、柱や壁には一面虫ののたくったような字で書きなぐった札が貼られていた。

沙夜は、その雰囲気にすっかり気を呑まれて、いごこちが悪そうに身を縮めていた。

~・~

「どうや、サヤちゃん、霊験あらたかやろ」
友人の木場昌子(きばまさこ)が言った。
沙夜は、昌子に誘われて、霊厳斎と名乗る自称霊能者を訪ねていた。

「まあ、そないに堅くならんでもよろしい。」
霊厳斎はいかめしいいで立ちに反して、気さくに声をかけてきた。
「今日はどないして訪ねてきましたんや」
「いえねえ、行者様
 今日はうちの方から誘うたんですわ。」
昌子が沙夜に代わって喋り始めた。

「この人、新地の方でずっと小さな小物を扱う商売をしてはったんですけど。
 ご主人は勤め人でね、40年以上真面目に勤め上げた会社を最近退職しはって、この人の店でも手伝いながら悠々自適に暮らそうと思ってはった矢先やったんです。
 急に頭が痛いといって倒れはって、それっきりですわ。
 そうかと思うたら、一緒に暮らしている長男はんが、今度は仕事場で大怪我をしましたんや。
 それで、もう何ヶ月も入院せんならん言うて、ほんまに弱り目に祟り目でしてな。」
「ちょっと、昌ちゃん、そこまで言わなくても」
「いや、サヤちゃん、こういうことはきちんとお話ししとかなあかんやないか。
 それでなあ、つい昨日なんかも、この人が住んではる家からぼやがでましてなあ。
 家にはこの人と、お嫁さんと中学生の男の子だけでっしゃろ。
 未だに片付かんと難儀してはるんですわ。」

「それは随分と難儀してはりますな」
そこまで聞いて霊厳斎が口を開いた。
「それで、うちが、これは絶対なんかの祟りや、って言うて。
 ちょうどうちが長い間世話になっている行者様がいてはるから、とひっぱってきましたんや」
「うむ、さよか。よう分かりました。
 どれ、今日は木場はんの顔を立てて、特別に見てしんぜましょう。」

~・~

霊厳斎は、仏壇だか、祭壇だかに向き直り、頭を低く下げ、手を頭の上に組んで低くうなり始めた。
「ほら、サヤちゃんも、一緒に頭下えな」
昌子に促されて、沙夜も一緒になって仏壇だか、祭壇だかに頭を下げた。
切れ切れに霊厳斎のつぶやく文句が聞こえてくる。あれは山伏の経のようなものだろうか。
むせ返るような線香の煙の中、意識が朦朧としかかっていた。
心臓がすこしづつ早鐘を打ち始めている。

「村上はん!」
唐突な霊厳斎の声にハッと顔を起こすと、何時の間にやら霊厳斎はこちらに向き直り、右手の念誦をズイッとこちらに突き出してきた。
「ご主人の名前は村上昭午(しょうご)はんで間違いないか?」
「えっ、はいそうです。
でも、どうしてそれをご存知なのですか」
心なしか霊厳斎は、少しニヤリとしたように見えた。

8代前

「良かったなあ、サヤちゃん。」
「う、うん・・・。」
戸惑い気味に沙夜は応じた。
沙夜と昌子の二人は霊厳斎のところを辞し、家路をたどっていた。
(悪い夢でも見ているようだわ・・・)
沙夜は先ほどまでの出来事を心の中で反芻していた。

~・~

「ご主人の名前は村上昭午はんで間違いないか?」
「えっ、はいそうです。

 でも、どうしてそれをご存知なのですか」
「わしはのう、今あんたのご主人はんと話をしとったんや。」
「えっ、まさか」
「ほんまのことです。
 あんたら、もとは会社の先輩と後輩やったんやろ。
 馴れ初めは、あんたの新人歓迎会の時や。
 慣れん酒を飲みすぎて動けんようになったあんたを、男気を出しておぶってきちんと家まで送り届けたんやってな。」
昔の出来事をすらすらとまるで目の前で見ていたかのように話し始めた。
「もう40年近くも前のことです」
沙夜は薄気味悪く感じながらも、だんだんと圧倒されつつあった。
(霊能者と言えばインチキばかりと思っていたけど、この人は本物かも知れない)

「さてとや、村上はん」
居住まいを正して、霊厳斎は声を堅くして言った。
「ご主人はんが言うわはるにはな、あんたから数えて8代前の母方の先祖が祟っておるそうなんや。」
「母方の・・8代前ですか」
(母方の8代前といわれても、3代前もどんなひとだったか怪しいのに・・・)
沙夜は言葉を継いだ。
「それで8代前のどんなひとなんですか?」
「それがなあ、ご主人はんも、どうもハッキリせんらしいんやわ。
 声をかけても向こうを向いて顔を見せん。
 ただ凄うおこっとるらしい。
 8代後のあんたや子供に禍をなす言うて、ごっつう恐いらしいで」
霊厳斎のその言い方に凄みがあった。

思わず「ど・・どうましょう?」と聞かずにおれなかった。
「ようは、きちんと供養をすることや。
 わしの霊力をもって供養をすれば間違いのう鎮まってくださるはずや。
 ただ、問題はその先祖はんが自分の名前を教えてくれんのやと。
 それでは幾ら供養をしても、自分のことやと分かってもらえんので困るんや。」
「はあ・・・」
「それでな、あんた、実家かなんかで家の家系図を手に入れてくれまへんか。
 それで8代前の先祖はんの名前がわかれば供養もできるはずや」

~・~

(8代前か・・・)
確かに、ここのところ不幸続きで、まるで何か祟っているのでなかろうか、と恐ろしくなっていたところだった。
そこにあの霊能者の言うことが本当ならば腑にも落ちる。
まあ、こういうことは世間でもよくあることだし、人が死ねば盛大に葬式や法事を行って霊を慰めると言うから、ここは一つ任せてみようか。

・・・そう沙夜も心に決めたのだった。

沙夜と千代

「なあ、おかあちゃん、おかあちゃん。」
沙夜は、家の奥の母親に声をかけた。

母親の河田千代は、沙夜の隣町に一人で住まいしていた。
3人いた子供達は、みな外で家庭を築き、千代も気楽な一人暮らしを好んで、長らく住み続けた家に留まっていた。
それでも80を幾つも過ぎた母親をほおっておくわけにもいかず、一番近くに住んでいる沙夜がたまに顔を出して世話を焼いていた。

「何や、あんたは。
 最近ちっとも顔を出さんと・・・。
 今日はいったい何の用事があって来ましたんや。」

そう言われると沙夜も心苦しい。
夫のこと、息子のこと、店のこと、そして火事のこと、いろいろ重なって最近あまり顔を出せていなかったのだ。
「いやな、おかあちゃん、うちとこの家系図知らんかと思って」
いつも標準語でしゃべる沙夜も、母親の前ではついつい地元の言葉に戻ってしまう。

「家系図・・・?
 またあんた、いつも急にそないなこと言うて。
 子供の頃からちっともかわらんな。
 そんなもの、何に使いますのや。」
「いや、その8代前がな・・・。
 ええんや、なんでもない。
 それより家系図知らんか。」
「わてがそないなもの持っとるはずないやろ。」
「そやろな」
「まあ、あるとしたら、わての実家の手次の寺に残ってるかも知れんわ。
 実家は代々門徒総代を勤めてきたから、名簿かなんか有るかも知れんで。」
「実家か、京都やな。
 もう30年近く行ってないけど、大丈夫やろか。」
「心配せんでも毎年の年賀状は欠かしとらんよってに、電話一本入れといたるわ。」
「そう、助かるわ」

「それよりあんた、今からデイサービスについてきてくれんか。
 この間転んで腰を打ってから、歩くのがしんどいねん。
 手を貸してもらえると助かるんやけど。」
「ごめんな、おかあちゃん、すぐまた行かなあかんねん。
 また顔出すから今日は堪忍な。」
「・・・まったく一人で大きうなったように思って薄情なもんやで。」

京都

次の、店が休みの日、沙耶は孫の拓斗(たくと)を伴って京都を訪れた。

「なあ、ばあちゃん、もう昼やで。
 どっかでご飯たべようや。」
「そんなこと言って、まだ11時じゃないの。
 用事が済んだら近くで、うどんでも食べよ。」
「ばあちゃん、俺カツ丼がいい。」
 たわいもない会話をしながら二人は山門に続く階段を登っていった。

山門をくぐると、ちょうど玄関からでてくる住職と出会った。
「おお、沙夜ちゃんか。
 何十年ぶりやろか。
 山下さんから連絡があってな。
 今日千代さんの娘の沙夜ちゃんが行くから頼む、いうてな。」

山下家は千代の生家である。
住職は千代と幼馴染で、やはり80を幾つも越えている。
しかし、それをまったく感じさせぬほどカクシャクとしていた。
沙夜も子供のころ、里帰りした母に連れられて、よくこの寺にも遊びにきていた。
だから、住職とも旧知の間であった。

「8代前の先祖の名前が知りたいやて。
 なんでまた、そんなこと知りたいんや。」
「まあ、和尚様には言いにくいんですけど、じつは私ある人に見てもらいまして。
 それで、8代前のご先祖を供養するように勧められまして。」
「なんでまた8代前なんや。」
「その・・・凄く怒っているらしくて、怒りを沈めないと、もっとたいへんなことになるぞ、って言われまして」
「・・・まあ、ええわ。
 そちらの子お孫さんかいな。
 今日、学校はいいんかいな。」
「今日は学校の創立記念日とかで。
 父親は今病院ですし、母親も勤めに出て一人ぼっちになるので連れてきたんです。」
「そうやったんかいな、
 まあ、ここでは何や、縁側にお上がり。」
 そう言って住職は、二人を縁側に招いた。

沙夜と拓斗は招きに応じて、掃き清められた庭の奥の縁側に並んで腰をおろした。
秋の陽が縁側に日なたをつくっていた。
目の前の庭の植え込みは色づいて、はらはらと葉を落としていた。
その間を雀がチュンチュンと鳴きながら飛び跳ねている。
(ああ、やっぱり京都はいいなあ・・・)
街中の喧騒を離れて、心がしっとりと落ち着くのを感じていた。

家系図

「8代前というと、だいたい200年前くらいかのう
 どれ、おお、あった。
 ちょうど今の当主から数えて8代前、『山下・・・孫衛門』という御仁やな。」
台帳を繰りながら奥から住職が現われた。

「『山下孫衛門』ですか。侍みたいな名前ですね。」
「いや、あんさんとこは代々名字帯刀を許された家やったんや。
 そやけど、ご先祖はんの供養や言うて、また妙なものにかぶれたもんやな。」
「はあ・・・でも」
「なんや、坊主は先祖供養が仕事やと言いたいんかいな。
 そないなこと言うたら、お釈迦様が泣かはるで。
 昔インドでお釈迦様がお説きになったのがお経や。
 それも当時の生きている人達の前でや。
 死人のためやないで。」
住職は、言葉を継いだ。
「それになあ、先祖、先祖言うて、あんたに一番近しい先祖は誰や?」
「それは・・・母です。」
「そうやろ、できたてほやほやの先祖や。
そんな8代前の先祖を供養する前に、ちゃんと1代前の先祖に親孝行できとるか?」
沙夜は言葉に詰まって困ってしまった。

「まあ、ええわ。
 うちとこで漬けた梅干や、食べや。」
 そういって、住職はお茶と一緒に鮮やかな色の梅干を勧めてくれた。
「ばあちゃん、これ酸っぱいわ。」
梅干を口に放り込んだ拓斗が、見る見る酸っぱそうな顔になった。
沙夜も一粒口に放り込んでみた。
住職に言われた言葉と、梅干の酸っぱさが口いっぱいに広がった。

それから

それから半年後、沙夜は喫茶店で昌子と待ち合わせていた。
「なんや、サヤちゃん。浮かん顔やな。」
「うん、ちょっとね。」
「また息子さん悪いンかいな」
「そっちはおかげさまで大分いいんだけど・・・。
 ちょっと、拓斗がね。」
「タクちゃん、なんかしたん。」
「なんかしたん、というより、なんかしないから困ってるの。
 登校拒否って言うの?もう2週間に学校に行っていないのよ。」
「親はなんて言うてますねん。」
「父親は『ほっとけ、そんなときもある』ってさっぱりしたものよ。
 母親はそんなわけにいかないから、怒ったりなだめたりしてるわ。
 でも、ぜんぜん駄目。
 『俺は行かない』の一点張りなんだから。」
「また、難儀やなあ。
 せっかく、ご先祖はん供養してもろうたのに。
 そうだ、また行者様に見てもらうおうか?」
「ちょっと・・・いいわよ。」
「あかん、あかん・・・8代はん、まだ怒ってはるかも知れんやろ。
 決めた、昼からいこ!」
 どうも、昌子には叶わない、そう沙夜は心のなかで思った。

~・~

京都から帰った後、沙夜は昌子にともなわれて、また霊厳斎を訪ねた。

霊厳斎に『山下孫衛門』の名前を告げて、供養をしてもらったのだ。
供養には、50万包んだ。
昌子に言わせれば相場だそうだ。
決して、楽に出せる金額ではなかったが、これで8代前が鎮まるなら、と預金を崩した。

そして、供養の後、息子の怪我も癒え、また元通りの平穏な日々がしばらく続いていた。
(ああ、これで良かったのだ・・・)そう思っていた矢先のことだった。

~・~

霊厳斎を訪ねることに話が決まった後も、昌子のしゃべりは止まらなかった。
「それでなあ、大山はんったらな・・・旦那はんともめてな。
 あんまり頭来たもんだから、靴下でダシを取った味噌汁を飲ましたんやと・・。」
「ねえ、ちょっと昌ちゃん、前から思っていたけど、誰の前でもそんなふうにお友達の話をするの?」
「えっ、そうかいな。うち、そんなにしゃべりかいな。」
「まあ、呆れた。自覚ないんだ。
 まさか、行者様の前でも、私の話をしていたの?」
「えっ、そうかな・・・。
 よう覚えとらんわ。
 あの行者様、とても聞き上手やってな・・・。ついついいらんことまでしゃべってしまうんやろか。」

(まさか、あの霊能者、随分私のこと詳しいと思っていたら、こんなところに情報屋がいたのね。)
百戦錬磨の霊厳斎からすれば、しゃべりのおばはんをおだてて、いろいろ聞き出すなど手もなかったであろう。
わずかだが、沙夜の心に霊厳斎に対する疑念が生まれたのだった。

10代前

「よう来なはった。その後、どないですか?」
「行者様、またちょっと、よろしいないねん。」
「うむ。禍福はあざなえる縄の如し、というからなあ。
 まあ、それでわしのようなものが要るんやけど。」

昌子は、簡単に沙夜の困りごとを話した。
「それでなあ、まだ8代前はんが怒ってんのやないのか思うてきましたんや。」
今度は沙夜が言葉を引き取った。
「でも、行者様、そんな孫がちょっと学校にいかなくなったからって、祟りって言い出したらキリがないんじゃ・・・」
「まあ、待ちなはれ・・・。
 最近の日本人は先祖に対するおそれいうものがなくなって、あきまへん。
 福も、禍も、みんな先祖はんがたがくれはることを忘れとる。
 ちゃんと供養しとかんから、みんな不景気や、災害や、家庭崩壊やと、この体たらくや。」
「そんな・・・。」
「まあ、もういっかい、見てしんぜるからに・・・。
ご先祖はんの言うことよう聞きや。」
そう言って、霊厳斎は、また仏壇だか、祭壇だかに向いて頭を下げて、低くうなり始めた。

「うむ!
 今度祟っているのは8代前ではない。」
向き直りもせず、仏壇だか、祭壇だかに向いたまま、霊厳斎は喋り始めた。
「では、誰が・・・?」
「10代前じゃ!!!」
「なっ、10・・・代前???」
沙夜は思わず大きな声を上げた。
「そうや、10代前の先祖や、供養してしんぜるよってに、また名前を調べてきなはれ。」

(雑だ、雑すぎる・・・。私もなめられたもんだ。)
沙夜は頭に血が昇るのを感じた。
「ええ、加減にしいや。このガキ!!」
思わず、沙夜から地元の言葉が飛び出した。
「8代前の次は10代前かいな!
 それで、また次は11代前か!!
 しばくでホンマ!!!」
そうやって声を怒らせながら、霊厳斎を思いっきり後ろから突き飛ばした。
そのままの姿勢でつんのめった霊厳斎は、仏壇だか、祭壇だかに頭から突っ込んだ。
バラバラと仏壇だか、祭壇だかが崩れて、霊厳斎の頭に落ちてきた。

「あたた、何するんや!!あんさんは。
 こないなことして訴えまっせ!!」
そこに慌てて昌子が止めに入った。
「サヤちゃん、もう止めや!
 行者様もあかん!!
 このサヤちゃんはな、高校の頃、ごっつう悪かって、このへんの愚連隊にはみんな恐れられとったんや。
 それで、あんまりガラ悪いて反省して、今は標準語しか喋らんようになったけど、こっちの言葉でしゃべっとる時は、地が出とるから刺激したらアカン!」
「な、なんやて・・・。
 品のいいおかあはんやと思ったら、なんちゅう人連れ込みますねん。」
「そんな、こともわからんかったんか!このエセ霊能者が!!!!」
沙夜の怒号が空気を震わせた。

大団円

(50万、返ってこないだろうな・・・。あれだけ暴れて、もう恥ずかしくていけない。高い授業料と思うしかない・・・。)

次の日の午後、沙夜は孫の拓斗を伴って、千代のところを訪れた。
「おかあちゃん、おる。今日デイサービスの日やろ。
 迎えにきたで。」
「おやまあ、あんた、どういう風の吹きまわしや。
 拓斗まで。」
「俺もな、うちに居っても何もすることないねん。
 そやから、今日はばあちゃんにつきあたってんねん。」
「この親不孝もんが、雨でも降らんとよろしいけどな。」
「まあ、8代前より、まず1代前思うてな。」
「なんのこっちゃ。」
「まあ、なんでもよろしいわ。」

~・~

杖を突きながらゆっくり歩く千代と、それにつきそう沙夜、そして少し遅れて歩く拓斗、その3人の前に、中学生くらいの少女が近づいてきた。

拓斗がそれに気がついて声をかけた。
「なんや、お前、まだ学校の時間やん。」
「早引けしたんや。
 なあ、あんた、いつ学校戻るん。」
「もう、ちょっとや。
 ほとぼりが冷めたらな。」

「拓斗。この子、どちらさん?」
拓斗は照れくさそうに言った。
「いやな、あんまり言いたあなかったんやけど、こいつな同じクラスの大西やねん。」
「大西いいます。」
「こいつなあ、ちょっと鈍いとこあんねん。
 それでクラスでいじめられてなあ。
 俺、それ見て頭来て、その時あおとったやつ、しばき倒したったんや。」
「あんた、そう言えばボロボロになって帰ってきましたな。」
「でも、その後ちょっと学校に行きづらあてなあ。
 大西、その後いじめられてないか?」
「うん、大丈夫、おおきにな。」
「あんた、やっぱり、わたしの孫やなあ、あっはっはっは・・・」

沙夜の澄んだ笑い声が、秋の高い空に吸い込まれていった。

(おわり)

16.崩され島

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注意:この作品はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

大俳優の死

日本の演劇界に、その人有りと言われた大俳優が死んだ。

その名を、武島象二郎。

昨年、舞台稽古中に倒れて緊急入院後、長らく自宅で療養を続けていたが、誤嚥がもとで肺炎を併発。
ついには、懸命の治療も虚しく、搬送先の病院で最後の息を吐いて果てたのだった。
享年78歳。

弔問には、この大俳優の死を悼んで多くの演劇人が詰め掛け、しめやかに故人の告別式が取り行われた。

そして、弔辞に立ったのは、彼もまた日本の演劇界の重鎮と言われる山形有朋、83歳であった。

弔辞

山形老人は、遺影を背にスタンドマイクの前に立つと、懐から弔辞の原稿と思しき紙を取り出した。
生前、故武島と深い交情のあった山形老人だから、彼の口からは在りし日の武島のことが涙ながらに語られるだろうと皆が思った。

しかし、彼の弔辞は、このような切り口上で始まったのだ。

「皆さん、私が今から語るのは、在りし日の故人の思い出でもなければ、胸が張り裂けるように寂しい私の心情でもありません。
それは、海の中に生まれた一つの小さな島の物語です。」

小さな島の物語

名優、山形有朋は、切々と一つの物語を朗読し始めた。
感情の抑揚のない、淡々とした語りであったが、噛んで含めるような一言一言に、聴衆は皆咳き一つ立てずに聞き入っていた。

-・-

青く広い海の真ん中に、ある時小さな島が生まれた。
潮の満ち引きや、打ち寄せる波に、消えてなくなりそうな小さな島だったが、長い年月に洗われもせず、水平線と空ばかりの中、ちゃぷちゃぷといつまでも浮かんでいた。

やがて、島には渡り鳥たちが羽を休めに訪れるようになり、ある時、鳥が落とした糞に混入した種から草が芽吹いた。
草は種を付け、周囲にバラまくことによって、その勢力を拡大して行った。
やがて、島は一面草の生い茂る緑の島になった。
長い年月が流れ、そしてある時、島に朽ちた木が漂着した。きっと、どこかの洪水で海にまで流されてきたのだろう。塩水をたっぷりと吸い込んで、浮きつ沈みつしながら、ようやく島に打ち上げられた朽木は、岸に打ち当たると、脆くなっていたところから二つに裂けた。
しかし、そのはずみに朽木を食らっで生き延びでいた数匹のミミズが島に放りだされた。

歓喜の島

ミミズたちは、波間での激しい朽木の揺れに耐え、ヒリヒリ身を刺すような海水の塩分にも耐えた。
そして、朽木に巣食っていた数匹のミミズたち、奇跡的に生き延びてその小さな島に上陸した。

長い年月をかけ、草が生えては枯れ、生えては枯れを繰り返したことにより、島は堆積した草により肥沃な土地となっていた。
やっと、狭く苦しい朽木の船旅から解放されたミミズたちは歓喜の声(ミミズが叫べたらだが)を上げながら、豊穣な大地に潜り込んだ。
そして、そこはミミズたちの楽園となった。

陸から遠く離れたこの島には、ミミズたちを取って食おうと言うものはいなかった。
ただ、春と秋に渡り鳥たちが訪れたが、地面に潜り込んでいるミミズたちに、鳥たちの鋭いクチバシの犠牲になるものは希だった。
そして、肥沃な土を消費しながら、ミミズたちは驚異的にその数を増やしていった。
季節が巡る度に、100倍、そして、またその100倍。いつの間にか、島はミミズが溢れ返る異形の島と化していた。
地面に収まり切れず、鳥たちについばまれるものもいたが、無限とも言える彼らの数の前ではどれほどの被害でもなかった。

崩壊

やがて、月日が流れ、その小さな島はますます異形の島と化していた。
島の至るところにびっしりとミミズたちが取り付いて、しきりに蠢いているのだ。それは土の中から弾き出されたミミズたち。そして、土の中はさらに無数のミミズたちが穴を穿っていた。
その島は、ミミズたちの穿つ無数の穴で、細い空洞だらけのスカスカの土地に成り果てていた。

やがて、ある時、蠢く無数のミミズたちの重さに耐えかねるように海に面した丘が崩れた。
その丘はミミズたちがびっしり取り付いた巨大な土塊となって海に落下していった。
声を発しないミミズたちの断末魔の叫びとともに、土塊は海に当たり微塵に崩壊し、やがて汚泥で濁った渦を巻いて海中に没し果てた。

きっと、島に残されたミミズたちはギョッとしたろう。同胞たちに何が起こったか、悲しいかなミミズの知恵では知りえなかったとしても、声なき断末魔を耳にして、しばし黙祷を捧げたかも知れない。しかし、彼らはまた関心を目の前の業務に戻すと、生存のため、自身が肥え太るため、未だ肥沃な土地を貪ることに精を出すのであった。

しかし、その小さな島の地盤は想像以上にミミズたちによって侵食されていた。
そして、第二、第三の崩壊が起こった。
地面は崩れさり、そこに住まいしていたミミズたちを抱きかかえたまま、海に藻屑と消えた。
海に没したミミズたちは、必死に泳いで島に取り付こうとしたが、島の周りの急流に阻まれて、やがて海の彼方へと流されていった。

その崩壊は、その後も止まることがなかった。ミミズたちに侵食され、もはやスカスカの小さい島はやがて全てを海に没することは免れえなかった。
気がつけば、島は半分の大きさになり、三分の一の大きさになっていた。
同胞たちの悲劇を目にしながらも、知恵のないミミズたちは、それに対して何の手立ても講ずることはなかったし、ただ今回の崩壊の犠牲にならなかったことを喜んで、目の前の土を貪るだけに夢中であった。

暗喩

その後も崩壊は続く。
そして、轟々と音を立てて、破滅的な崩壊が始まった。
海面に残った土地は真っ二つに裂け、左右に分かれて海面に没した。そして、島の全てのミミズたちが海に投げ出されて絶命をした。

しかし、その時、わずかに海面に残った土地の上に一匹のミミズが動いていた。
衝撃に目を回しながら、それでも目の前の土を貪ることを止めない。
それも、今しばらくのことだろう。
やがて、その土地も波に洗われ完全に海に没するのは間近だった。
その悲劇的な運命を知ってか知らずか、この最後のミミズは自分の露命をつなぐ摂食にただ余念がなかった。

-・-

ここまで語って、山形老人は原稿を折りたたむと、また元のように懐に収めた。

あっけに取られる聴衆を前に老人は、表情を変えずにこう付け加えた。

「お判りいただけましたかな。この小さな島とは私たちの人生、土を食べるとは私たちの生業、島が崩壊するとは激しい無常に襲われ同房を失うことです。
そして・・・最後に残ったミミズとは、私のことです。
まことに悲しいことです。」

そして、少し背中を丸めた寂しげな風体で山形有朋はスタンドマイクの前から立ち去っていった。

(おわり)

※解説
有る時、無くなった著名人を悼む仲間のインタビューがテレビで流されていました。
でも、仲間を悼みながら、誰もが今生き残っている自分は「勝ち組」的な雰囲気を漂わせていました。
ただ、どの人も命を謳歌できるのは今しばらくといったところでしょう。

15.志乃さん #04【おとこ前彼女】

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注意:この作品はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

策士

「いや、たいしたもんだ。松木電子さんがここまで本気に取りにくるとは正直思わなかったよ。」

プレゼンの後、応接に招き入れられた一二三数人(ひふみかずと)と古澤志乃(ふるさわしの)に対して、事務長の昌元は上機嫌で応じた。
「あの、院長の感触はいかがでしょうか?」
数人がやや遠慮がちに質問をした。
「うん、いいと思うよ。なにしろ、看護師たちがすっかりその気になっているから、院長としてもかなり心が動いたんじゃないかな。」
「有り難うございます。」
「まあ、君たちがそこまで本気ということは、私の方の申し出も当然問題ないと見ていいよね。」
その露骨な言い方に志乃は呆れかえった。
(部外者の私の前で、あのことを持ち出すなんて、どういう神経かしら。所詮、業者なんて、何でも自分の思うとおりになると思っている証拠ね。)
「は、はあ・・・そのことですが・・・。」
事務長を前にひるんで言い淀んでいる数人に志乃が耳打ちをした。
「ほら、ここが正念場よ。」
志乃に後押しをされた数人は、意を決して言葉を続けた。
「あのことはあくまで妹の意志で決めることです。兄の私から口が出せることではありません。」
「ほう。つまり、ノーであると。まあ、それならそれでいいよ。妹さんとは直接話をしよう。それなら構わないだろ。」
意外とあっさりと昌元は引き下がった。
「え・・・っと。それなら・・・。」
「つまるところ、私情とビジネスは分けろということだ。だから、あなたたちは、競合に負けないように提案を練りこんで来たんだよな。」
「仰しゃる通りです。」
「そして、院長を落とせば商談はなんとかなると思った。そんなところだな。だが、まあ。こんな時、例えばN社ならどう言うかな。要は持ちつ、持たれつと言うことだろ。君たちの姿勢は立派でも、私のような立場の人間はいざと言う時、自分の無理を聞いてくれる相手を選ぶものだよ。だから、今回の妹さんの件は、これからあなた方がお付き合いするに値する会社かどうかのメンタルテストでもある訳だよ。」
(よくまあ、ペラペラと、言いにくいことまで喋ること・・・。でも、それだけ一二三さんに執心しているってことね。)
「・・・」
「それが、病院全体の購入予算を預かる私と言う人間の考え方なのだよ。」
(俺の言うことを聞かないとボールペン一本買わないぞ、と言うことね。じゃあ、見てなさい。プランB発動よ。)

「そちらの女性の方、一二三君の上司なのかな。どう思う。私には、彼には少し荷が重い判断だと思うのだが。」
「はい、私もそう思います。しかし、問題の複雑さから判断して、さらに上の判断が必要かと思われます。」
「とは言え回答の期日は今日だ。時間がかかっては困るよ。」
「その点は心配ありません。少し失礼します。」
そう言って、志乃は応接のソファから立ち上がると、扉を開けて、外にいる人物に中に入るように促した。

扉の向こうから姿を現したのは、あのプレゼンターの男性だった。
「失礼します。先ほどは、ご清聴ありがとうございました。」
「ああ、あなたでしたか。お二人の上司の方だったんですね。」
男性は満面の笑みを浮かべて名刺を差し出した。
「ご紹介が遅れました。私、松木電子 専務取締役の松木 孝一郎と申します。」
(えーっ!)
数人は突然登場した自分の会社の専務にびっくりして飛び上がった。
「ほう、松木電子の専務さんの直々の登場とは恐れいりました。しかし、松木とは、ご一族の方ですか?」
「はい、社長の松木善太郎は私の父です。」
「それは、それは、どうかおかけください。」
「畏れいります。」
そうして、孝一郎と昌元はソファで差し向かいになった。数人と志乃は、孝一郎に席を譲り、少し離れて聞いていた。
「だいたいのことは、二人から聞いております。」
「そうですか。なら、話は早い。松木電子さんとしては、どう考えられますか?」
「そうですね。我が社としては、今後のお付き合いを考えれば、少なからず事務長のお力になりたいと考えています。特に今回のことでは、とてもお困りだとも聞いております。
ですが・・・。」
「ですが、とは?」
「はい。私どもとしても、あまり、後々に禍根を残すようなやり方はお勧めできません。ましてや、うちの社員の身内ともなれば尚更です。」
「なるほど、つまり、ノーですな。」
「いえ、いえ、そんなに結論を急がずに。まずは、このメールのプリントアウトを見てください。これは、今朝、うちの社長宛に送られてきたものです。」

『松木電子 株式会社 代表取締役 松木善太郎殿
貴君の忠告誠に痛みいる。
確かに、今回の出来事は一歩間違えば当院の医療過誤事件となり兼ねなかった。
むしろ、このような問題が本件に留まらず、院内にまん延しているのではないかと危惧している。』

「何です、これ。こんな大層な告発文を誰が送ってきたのですか?」
「まあ、一番下の差出人をご覧下さい。」
「えっ、一番下・・・、
『医療法人 A病院 代表理事 相田希志夫』って、うちの理事長ではないですか!」
「その通りです。相田理事長から頂いたメールです。」
「ちょっと、待ってくださいよ。うちの理事長と松木社長はどういう関係なのですか?」
「ちょっと考えてみてください。松木メディカルは、まだそんなに実績があるわけではない会社です。そんな会社が、ただでさえ参入の難しい医療業界の、しかもA病院のような大病院の、電子カルテシステムのコンペの末席に加えて貰えたのは何故だと思います?」
昌元は、記憶を手繰るような表情をしたが、急に思い出したように声を上げた。
「あっ!そうそう、理事長から指示があったんですよ。取り敢えず、話だけでも聞いてやってくれ、と。」
「実は、相田理事長とうちの社長は、40年来の悪友という仲なんですよ。お互いの性格もよく知っているし、スネの傷も知らない訳ではありません。ですから、うちの父に頼んで今回の取りなしを頼んだのです。」
「そ、そうなんですか。」
「はい、それで大切なのは、メールのこの部分です。」

『身内が絡んでいたので、わたしも少々感情的になったようだ。反省している。
しかし、ことなきを得たとは言え、これを看過しては、いずれ大きな医療事故につながり兼ねない。
ついては、以下の二点の実行を条件に関係者のミスは不問に付そうと思う。
一つ、当事者の厨山医師から、高畑に謝罪を行うこと。
二つ、各医局とも、今後ミスの起きないように体制を見直し、また不幸にしてミスが起きた時は報告を徹底すること。
生憎、私は今週一杯海外に出張するため、まことに手数をかけるが、事務長の昌元と相談の上、確実に上記二点が早急に実行されるよう手を貸して貰いたい。』

「と・・・言うことです。理事長にはご理解をいただけましたので、後は事務長から厨山医師に高畑さんへの謝罪をお願いして貰えないでしょうか。」
「分かりました。しかし、まさか、このようなルートで来られるとは。」
「優秀な外科医と、また優秀な看護師を天秤にかけなければならなかった事務長のたいへんさも分かりましたからね。ならば、一番大もとからって思ったんですよ。」
「有難う・・・と言うべきなのでしょうな。」
ふう、と息を吐き出しながら、昌元は礼の言葉を口にした。

その時、澄ました顔で志乃が口を挟んだ。
「事務長、一つ貸しですからね。この意味お分かりになりますよね。」
(これ一つ言いたかったんだ!)
その唐突な言葉に昌元は驚きを顔に表し、数人は魂消て志乃の顔をまじまじと見つめ、そして孝一郎も慌てて彼女をたしなめた。
「こら、古澤君、止めないか。事務長に失礼だろう。申し訳ありません。うちの社員が失礼なことを言いまして・・・。」
「ははっ、いやはや、参りました。」
苦笑いを返しながら昌元は応じた。
「しかし、なかなか策士でいらっしゃる。これなら松木電子さんも将来安心ですな。」
「いえいえ、うちにはもっと策士がいますから。私など、社長のポストを持っていかれやしないかと、内心ヒヤヒヤしています。」
そう言って、孝一郎は愉快そうな笑みを浮かべた。

夕陽

3人は昌元のもとを辞して、病院の正面玄関前に姿を現した。
「あの専務、今日はお力添えまことに有難うございました。」
志乃は、孝一郎に向かって深々とお辞儀をし、数人も畏まって一緒に頭を下げた。
「なんの、なんの。グループの大型受注が2件も絡んでいたんだ。かつて、プレゼンの天才児と言われた僕が、最後くらい決めなきゃね。」
「専務う、ご自分のことをそこまで仰いますか?」
「冗談だよ。それに、古澤君の筋書き面白かったよ。まさか本当に社長まで引っ張りだすとは思わなかったけど。」
「専務のお力添えあればこそです。」
「また、是非こんな機会があれば、キャストに加えてもらっていいかな。」
「はい、是非お願いします。」

「ところで、一二三君。」
いきなり自分の名前を呼ばれて数人は肝を冷やした。
(今回の大元は僕だから、相当怒られるぞ~。)
「一二三君、自分の会社の専務くらい顔を覚えておきなさい。」
(えっ?そっち?)
「も、申し訳ありません。」
「専務、それは気の毒です。公の資料のどこにもお顔が掲載されていませんし、会社の行事にも来られないじゃありませんか。」
「そうか、それは失敬。今後は気をつけるからね。じゃ、これで僕は失礼するよ。」
「有難うございました。」
「有難うございました。」
二人はまた深々と頭を下げた。

「志乃さん。」
「はい?」
「志乃さんって、一体何者なんですか?」
「どうして?」
「だって、専務は全て志乃さんの筋書きだって言われたじゃないですか。ということは、志乃さんひとりで、専務も社長も、A病院の理事長も皆んな動かしたんですよね。」
「あ、そういうことになるかな。」
志乃はわざとそらっとぼけて言った。
「結果的に、難航していた松木メディカルの商談も有利になって、あの事務長にも恩を売って、相手のドクターも楢橋さんも丸く収まったじゃないですか。僕も妹も助かりました。しかも、これ全部1日でやってのけたんですよ。」
「細かいことは、もういいじゃないですか。それよりあの事務長にギャフンと言わせることができたんだもん。それでいいでしょ。」
そう言って、うーんと志乃は伸びをした。
「ああ、気持ちよかったあ!」
傾きかけた太陽が志乃の顔を黄金に染めて、その姿に数人は胸の疼きを覚えた。
「あの、志乃さん、今日は僕からお礼をしたいんですが、これからお付き合い願えますか?」
「そうね、どうしようかな。いい加減にしないと家族に怒られそうだし。」
「駄目ですか?」
「うーん、ま、いいか、今日は特別だもん。」

告白

数人が案内したのは、こざっぱりとした小料理屋だった。
入り口の縄の暖簾が風情を出している。
中に入ると、「あ、お兄ちゃん、こっち、こっち」と20をいくつもでていない女性が声をかけてきた。
「志乃さん、妹の二三四です。」
「初めまして、いつもお兄さんにはお世話になっています。古澤志乃です。」
「へえ、志乃さんかあ。初めまして。一二三 二三四です。」
「さあ、かけて下さい。」
数人が志乃に席を勧めた。
「志乃さん、あとお兄ちゃん、何にする?」
「僕はビールで。志乃さんは?」
「では、私もビールで。」
「あれっ、志乃さん、今日は酎ハイではないんですか?」
「えっ、あれはあの店でしかやらないんですよ。」
「えっ、なんのこと。でも、お兄ちゃん、綺麗な人だねえ。」
「こらっ、二三四、止めろ。失礼だろ。」
「お兄ちゃんの彼女。」
「えっ?こ、こらっ、いい加減にしろ。志乃さんはな、その、僕らの恩人なんだぞ。」
二三四をたしなめた数人であったが、唐突に妹に振られて、耳まで真っ赤になった。それを、二三四は、ははあんという顔をして見ていた。

「志乃さんは、彼氏とかいないんですか。」
「えっ、えっと・・・。」
酒が入りすっかりご機嫌の二三四は女子同士の気安さで、どんどん志乃に突っ込んだ。
「へえ、さてはお相手いないな。いいの、いいの、気にしなくていいよ。仕事を持っている女の人って結構縁遠い人いるもんね。私の先輩なんか、男っ気ゼロの人たくさんいるもん。」
それを少し困惑しながら受け答えしていた志乃だったが、唐突に二三四が斬り込んできた。
「ねえ、ならお兄ちゃんとかどうかな。私から言うのもなんだけど、結構いい男でしょ。」
いきなりの言葉に、数人は口に含んだビールを吹き出してしまった。
「ああ、汚いなあ。」
「大丈夫ですか、一二三さん。」
志乃がそつなく、数人のジャケットやズボンに飛んだビールを拭き取った。
「ああ、お似合いなんだ。」
「こ、こら、二三四。」
「どう志乃さん、少し頼りないけど、お兄ちゃんとお付き合いしてくれない。妹の私から一生のお願い。ねっ!」
思わぬ展開に数人は全く口がきけなくなってしまった。そして、ジッと志乃の返答を待った。
少し顔を赤らめてもじもじしていた志乃の答えは・・・。
「あの、せっかくの嬉しいお話だけど、でもね、私・・・1年前に結婚しているの。」
「えーっ!!」
「えーっ!!」
兄妹の驚きの声が店の中に共鳴した。

おとこ前彼女

その翌日、金曜日の定時間際。
「一二三、一二三くん、ちょっと。」
「おい、また課長のあれが始まったぞ。」
「はい。」
村木に促されて、少し不機嫌に数人は課長席に向かった。
「いやあ、一二三君、今、松木メディカルの営業部長から電話があって、電子カルテの件、A病院から内示があったそうだ。くれぐれも君たちによろしく伝えてくれと喜んでおられたよ。
これで、タグ・トレーサーの方も十中八九間違いないと見て良さそうだな。本当にご苦労だった。」
「それはどうも。」
「なんだ、余り嬉しそうじゃないな。何か気に触るようなことを言ったか?」
「課長、それより一つ伺いたいことがあるのですが?」
「な、何かね?」
数人の不機嫌そうな雰囲気に、課長の笹嶋はすっかり押されていた。
「課長は、どうして、志乃さんが・・結婚していること・・を教えてくれなかったんですか?」
「何?志乃さんが何だって?」
「ですから、何故志乃さんにご主人がいることを教えてくれなかったんですか、と聞いています。」
「えっ?志乃さんが結婚?そんな私も知らんぞ。おーい、志乃さん!君が結婚しているとはどういうことだ!」

笹島が部屋中に響き渡る声で志乃に問いかけたため、皆んなの視線が一斉に志乃に集まった。
「えっ、何?」
「志乃さん結婚しているの?」
「まさかあ。」
「えーっ!」
その視線に魂消て、志乃は席から立ち上がった。
「い、いえ、申し訳ありません。し、しかし、これには訳がありまして。」
冷や汗をかきながら、志乃は必死に弁明をした。
「志乃さん、それはないだろう。上司の私まで知らないでは、済むことではないよ!」
「も、申し訳ありません。」
志乃は深々と頭を下げた。

「別に問題ないんじゃないの。きちんと人事には話を通してあるし。」
そう言って、部屋に入って来たのは、専務の松木孝一郎だった。
いつもながらニコニコと笑みを浮かべている。
「あっ、専務!」
課長の笹島が、慌てて席を立ち上がった。
つられて、他の社員も立ち上がる。
そして、志乃はハッと眼を見開いていた。
「あの、専務、今日はどうして、ここに来られたのですか?」
「いやね。私的なことなんだが、今日は僕らの1年目の結婚記念日でね。」
「それはおめでとうございます。」
「それで、今日はフレンチレストランを予約したんで、家内を迎えに来たんだ。今日も、また遅くまで仕事になっては敵わないからね。」
「奥様といいますと・・・。」
笹嶋の眼がオフィス内を見渡して、やがて志乃に目が止まると、
「まさか・・・。」
そして、志乃が観念したように声を発した。
「ご、ご紹介が遅くなりました。私、ま、松木志乃と言います。」
志乃のたどたどしい自己紹介に、 社員たちが一斉に声を発した。
「えーーーっ!」
「えーーーっ!」
「えーーーっ!」
「えーーーっ!」

孝一郎はいたずらをする時のような顔をして続けた。
「いやね。うちはお袋を早くに亡くして女手がないだろ。そこへ来て、家内が遅くまで帰れないと、いろいろとたいへんなんだよ。」
「・・・と言うことは、志乃さんがいつも『家族』と言っているのは・・・。」
「そう、僕と、僕の親父、つまり、社長の松木善太郎だよ。ほんと、この3日間たいへんだったよ。」
「も・・・申し訳ありません!」
笹島は、殆ど身体を2つ折りにした大仰なポーズで頭を下げて謝った。
「だから、今日は僕の方から迎えに来たのさ。」
「では、奥さんが1年前にこの課に戻されたのは。」
「あれは、社長の考えだよ。昼も夜も舅と一緒だと、さすがの志乃もおかしくなるからね。」

やかて、定時を告げるチャイムがなると、「さ、もう準備は良いかな。」と孝一郎は志乃に促した。
「はい。」
「じゃ、行こうか。そう言えば、今日もあれやってくれる?酎ハイの一気飲み。」
「フレンチでする訳ないじゃないですか。」
(まさか、この人は専務まであれで落としたのか・・・。)
数人は呆れながら思った。
(全く、どこまで男前なんだ、この人は。)

「それでは、皆さんお疲れ様。」
「皆さん、これで失礼します。」
孝一郎に続いて、志乃も深々と頭を下げてオフィスを後にした。

パタン・・・。

志乃が残した扉の閉まる音を聞きながら、社員たちは、月曜日から専務夫人にどう接したら良いか、途方にくれていた。

(おわり)

14.志乃さん #03【プレゼン・デー】

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注意:この作品はフィクションです。実在の人物、団体とは一切関係ありません。

戦略

そう言って、別れた古澤志乃(ふるさわしの)であったが、翌日は朝から姿がなかった。
あの志乃の言葉に今日はどうなるかと身構えていた一二三数人(ひふみかずと)は拍子抜けをした。
(そりゃ、そうだよな、あれだけ飲めば。だけど、ちゃんと帰れたのかな?)

しかし、そんな数人の心配など無用とばかりに、志乃は11時頃姿を現した。そして、まっすぐ課長の笹嶋の前に立つと、「遅くなって済みませんでした。」と頭を下げた。ところが、笹嶋もさも心得たように、「ご苦労様」とねぎらうと、また志乃をオフィスの前の商談席に誘った。

「だいたいのことは、電話で報告させて貰った通りです。」
「う〜ん、一二三の気持ちも分かるが、メディカル絡みだと、個人の問題で片付けられんしなあ。」
「はい。しかし、そこを敢えてのお願いなのですが、今回の件は全て私たちに任せていただく訳にはいかないでしょうか?」
「しかしなあ・・・、やはり、君たちでは荷が重くはないか?」
志乃は、軽く息を吸い込んで笹嶋に告げた。
「そのことですが、実は、午前中、メディカルに伺って来ました。」
「まさか・・・全部話してきたのか?」
「いえ、私情とビジネスを混同する訳に参りませんので。代わりに一つだけお願いをしてきました。」
「ん?どんな?」
「はい、明日のプレゼンは松木電子と松木メディカルの共同提案にして貰えないか、とお願いしました。」
「志乃さんのことだ。何か考えがあってのことなんだろうが、それで向こうはどう言っている?」
「メディカルとしても、本体の松木電子なら共同提案は問題ないし、なにより提案の決め手を欠いていたので、良い援護射撃になると喜んでくれました。」
「そうかあ。しかし、それじゃますます一連托生だな。いよいよ後がなくなるぞ。やはり一二三の件は飲むのか?」
「いえ、それも受ける訳には参りません。私情とビジネスは別ですので。」
志乃は、キッパリと言い切った。
「しかし、それでは、その昌元とか言う事務長が納得しないだろう?」
「それなんですが、協力を申し出てくれた人がいまして、そちらもなんとかなりそうです。」
「えっ、それって・・・?」
さすがに笹嶋も、志乃の根回しの早さにギョッとした。
「今、詳しいことはご容赦ください。」
「と、言われてもなあ。ここまで話が大きくなると、当然社長の耳にも入るだろうし・・・。」
「全て、私の責任で構いません。」
そう言って、志乃は深々と頭を下げた。
「だいたい、志乃さん、君これ関係ないだろ?どうして、そこまで。」
「もう、乗り掛かった船ですから。」
「まあ、無理を言い出したのは私の方だし、他でもない志乃さんが、そこまで頭を下げて頼むんだ。私としては、任せるしかないんだろうな。」
「有難うございます。」
志乃は、もう一度頭を下げて続けた。
「ついては、課長にお願いがあります。明日の松木メディカルとの提案には、タグによる器具出しの仕組みを全面に出したいと思います。」
「ほう。」
「そこで、一二三さんの提案書をもとに器具出しソリューションの概算金額を算出していただきたいのですが。」
笹嶋は、そこは任せておけとばかりに軽く頷いて言った。
「分かった。時間は厳しいが、残ったメンバーでなんとかしよう。あと、君たちはどうする?」
「はい、今から一二三さんを連れて、メディカルで共同提案のプレゼンを練り上げます。」
「久しぶりに、古澤志乃!エンジン全開だな。」
「はい、畏れ入ります。課長も午後からの営業会議頑張ってください。」
「あ、ああ。」
笹嶋は志乃の言葉に苦笑いを浮かべながら答えた。

プレゼン・スタート

翌日。
A病院の会議室もは、院長の大川を筆頭に関係者が顔を揃えていた。
医局の責任者の医師たち。
事務長の昌元と彼の部下。
そして、看護師の責任者たち。
対して、松木メディカルからは、電子カルテ販売チームの山田と衣川(いがわ)、そして松木電子の一二三数人と古澤志乃の二人が参加していた。

開始前から、数人には、志乃のことが気になってしょうがなかった。
目の前の志乃はいつもとは、まるで別人だった。
あの野暮ったい黒ぶち眼鏡を、今日は丸味を帯びた女性らしいフレームに替えていた。そして、いつも後ろできつく縛っている髪も、ボリュームを持たせて後ろから胸元に流している。
頬にはうっすらとチークを入れて表情を明るくし、反対に少しキツめの口紅が顔全体に凛とした印象を与えていた。
さらに、身体のラインに沿った黒のスーツの中に、薄手のブラウスを着こんで、それが胸元に清楚なイメージを与えている。
また、細いハイヒールが形の良い足を際立たせていた。

「あの、志乃さん、あれから美容院に行ったんですか?」
小声で数人が聞いた。
「だって、昨日解散したの、10時過ぎてたでしょ。」
「今日は勝負の日ですから、当然です。」
「あ・・・はい、そうですよね。」
キッパリとした志乃の口調に、少し数人は気圧されていた。
「でも、今日の主役はあくまで一二三さんですから。それより・・・ちゃんと前を向いていて下さい。」
「はい。」
シラフでも、今日の志乃にはあの姉御肌が表に出ていた。
(服装一つで、女はこうまで変わるのか)と、数人はすっかり感心していた。

やがて、定刻となり、松木メディカルの山田がスクリーンの横に立った。
「それでは定刻になりましたので、私どもの電子カルテシステムのプレゼンデーションを始めたいと思います。今日は急遽、親会社である松木電子との共同提案とさせていただきました。どうかよろしくお願いします。」
そうして、山田のプレゼンはつつがなく進んで行った。

「ちょっと済まんが、あなたの会社の電子カルテの売りはどこなのかね。」
そう質問を投げたのは、院長の大川だった。
「はい、この電子カルテは、いろいろな立場の方が、いろいろな場面で使っていただくことを想定しております。当然、患者さんの情報は、個人情報なので、ドクターに準ずるしかるべき方しか見られないようになっています。しかし、患者さんの病歴やアレルギー、薬の処方など、関連情報の開示は、必要に応じて行うべきものです。そこで、必要な人が必要な時に情報を見られるように、権限に応じてアクセス許可を設定できるようになっています。
また、その時に使うデバイスは、職種によってコンパクトであったり、また情報が沢山表示できるようにワイド画面であったりと、用途ごとにいろいろな機種が混在します。そこで、弊社の電子カルテシステムは、いろいろなサイズのデバイスが混在しても構わないように、画面サイズ毎にカスタマイズをしています。どの機種でも見やすさと操作のし易さを実現しているのが弊社のシステムの特長です。」
「なるほど。」
そうして質疑応答は続いていったが、松木メディカルのエースの山田の受け答えには全く澱みがなかった。
「志乃さん、なんかいい感じですね。でも、僕緊張してきました。こんな人の後で何を言っても僕かすんでしまいますよ。」
しかし、志乃は、ことも無げに数人に告げた。
「別に緊張しなくていいんですよ。私たちのプレゼンは別のプロに頼みましたから。」
「えっ、えーっ、ならどうして、あんなに繰り返し練習させたんですか?」
「ごめんなさい。あれは練習じゃなかったんです。実際にしゃべって貰って、言葉を手直ししていたんですよ。」
「はあ、なんだ。ホッとしたと言うか、緊張して損したと言うか、残念と言うか・・・。」

タグ・トレーサー

「では、ここまでで、私どものプレゼンデーションは一旦締めまして、あとは松木電子に引き継ぎたいと思います。」
そう山田が締めくくると、後ろの扉から一人の男性が姿を現した。
背の高い、立派な体格の30くらいの男性で、大股であっと言う間に会議室の前方までやってくると、皆に向かって深々と頭を下げた。
二枚目ではないが、笑い皺が至るところに刻まれた好感の持てる顔立ちだった。
そして、その男性はよく通る声で説明を開始した。
「失礼します。では、松木メディカルに引き続き、私ども松木電子のご提案する病院向けタグ・トレーサーについてご説明します。」
落ち着いた態度、そして身振り手振りを交えた分かりやすい説明、明らかにプレゼン慣れしているのが見て取れた。
「志乃さん、本当にプレゼンのプロですね。」
「そう、とっておきの秘密兵器なの。」

男性は、まず、タグ・トレーサーの予備知識について簡単に説明を行い、その上で今回のプレゼンデーションの肝になる部分について話し始めた。
「今回のご提案の一番の要点についてご説明します。
タグ・トレーサーとは、本来、人間にICタグを身に付けて貰い、室内に張り巡らせたセンサーで、その人の現在位置をリアルタイムに検知するものです。これにより、院内のドクターやスタッフ、さらに患者様の現在の場所を本部からいつでもモニターすることができます。
さらに、この提案は、電子カルテシステムとの連携がポイントになっています。それは、電子カルテシステムの端末を、ドクターが患者さんの病歴や状態を記録するのみならず、ありとあらゆる用途で活用するところから生まれた利点です。
たとえば、手術や治療の際の器具出しは、この病院ではどなたが行われていますか?」
そう言って目の前の看護師長らしき人に意見を求めた。
「それは、もちろん、私たち看護師の大切な仕事です。器具に対する知識も要りますし、もし万一間違いがあれば取り返しがつきませんから。」
「それは、病院にとって常識でした。ただし、今までは、です。」
看護師たちの怪訝な顔に構わず、男性は続ける。
「今回の電子カルテシステムの端末には、手術や治療の内容に応じて必要な器具の組み合わせが登録してあります。さらに、ドクターが手術の特性に応じて情報を書き換えれば、器具出しの担当者にもリアルタイムで共有されます。
ただ、必要な器具の名称が分かったところで、それが何なのか知識がなければ、器具出しの作業は行えません。そこで、まず置き場の器具毎にICタグを装着します。そして、端末から器具出しの指示書を呼び出すと、画面に器具の名称、形状、数量、さらに置いてある棚の位置まで表示されます。あとは、その情報をもとに器具を取り出せば、たとえば外部から派遣された人間でも正確な作業が可能です。
すると、看護師の皆さんの負担が軽くなり、本来の業務に集中することができます。そして、院内のケア体制を向上させることができるのです。」
そこまでしゃべって、聴衆に目を転じると、明らかに目の色を変えている看護師たち。
プレゼンターは満足して、ニッコリと笑った。
それは、見るものの心を引きつける会心の笑みだった。

(志乃さん #4に続く)